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梯子を上ると、ベンチに足を組み海を眺める整った横顔があった。高く美しい鼻梁から覗く深い眼差しがこちらに向くと、アオイは少しだけ怯み、足を止めた。
「ふふ、今日は貴方なのね」
何かを分かっている筈なのに、表面的な会話を撫でるだけ。
――やはり、この船で彼女だけは異質だった。
「コックから差し入れだ」
アオイはそれに何とはないとばかりに、コーヒーとそれから少しだけの素煎りしたアーモンドが乗った小皿をベンチの隅に置く。ロビンは「有難う」と微笑むのみ。
「…………」
「…………」
(どうしろってんだ)
軽くなったトレイを片手で弄ぶ。紅茶も実は、持ってきているのだが――どうも切り出しにくい。
「体調はもういいのかしら?」
「――あぁ、うん。お陰様で」
こういう時、やはり大人だと感じる。どういう流れが自然なのか、分かりきっているように自分を誘導してくれる。自分がまるで波に揺れる笹舟みたいだった。いい波が来れば、あとは自然に乗っかるだけだ。
「……お前が気付いてくれたんだってな」
「あら、でも色々と気を配ったのは私じゃないわ」
「それでも、あんたの言う通りだった。実際風邪も引いたし」
苦笑いを浮かべると、ロビンはそれまでの微笑を僅かに崩し、ほっとした表情になった。
「根を詰めすぎるのは身体に良くないわ」
「肝に命じとくよ」
「そうして。今日は体調のこともあるし、もう部屋へ?」
「いや、まだ紅茶が――」
言いかけて、はっとする。
(はめられた)
誘導されたことにさえ気付かなかった自分が情けなかった。
「ふふ、不寝番の夜は長いの。付き合ってくれる?」
*
世界について、海について、歴史について。さすがは考古学者のロビンなだけあって、宝石や石についての知識も豊富だった。話し相手としてかなりレベルの高い人物であることは分かっていたが、彼女のその教養の高さは、使命感に突き動かされているようにアオイには思えた。
「なぁ、ニコ・ロビン」
「なにかしら?」
「お前は、そのオハラの最後の生き残りなんだろ?過去の人……そういう先人たちの歴史を正しく伝えるっていうのは、お前が本当にやりたいことなのか?」
噛み締めた疑問だった。噛み砕くか、否か。その先にある答えは分かってるのに。
「正しい歴史を知るのは勝手だけど、先人たちは本当にそれを望んでるのかとか、考えたことないか?」
彼女はその目を少しだけ見開くと、「そうね」と一呼吸置いた。
「先人たちの気持ちには、最大限寄り添ってるつもりよ。でも万が一、過去を掘り返すことが、彼らにとって不快なことだとしたら。……詭弁かもしれないけれど、“語られない歴史”を紡ぐかどうかは、後世でこそ決めるべきだと私は思ってる」
「なるほど、誰かの過去は今生きてる者のためにある、か」
「よく言えばそうね」
コーヒーをゆっくりと口に含むロビンをちらりと見る。穏やかに緩まった口元は、それでも固い決意の強さを感じさせた。
ここのクルーはみな、そういう自分自身の決意を夢として見れた集まりだ。海賊王、剣豪、海図――だからこそ、誰よりもみな強い眼差しで、強い力を発するのだ。
だからこそ、後ろめたいのだけど。
「悪く思わないでくれ」
「…………」
突然のアオイの言葉にも、彼女は動じない。まるで今から話すことでさえ、分かっているかのように。
「お前が仲間たちに過去をずっと明かせなかったように、俺にも個人的な事情がある。それをみんなに明かすつもりはさらさらない。ただ、お前の勘の鋭さに警戒せざるを得なかったんだ」
海を眺める。静かに闇に染まる海上に浮かぶ月が、ロビンの静かな笑い声に揺れた。
「……分かってるわ。貴方が何か言えない事情を抱えていることくらい。――きっと、他のクルーも」
「!」
「ルフィだって、本当に凝り固まった奥深い部分を突くのは得意なの。さすがは船長なだけあって」
試すように見上げてくる瞳が、どこか航海士と被った。やはり、この船の女性は強い。アオイも負けじと、笑みを返した。
「――肝に命じとくよ」
「ふふ、いつか……話せるといいわね」
紅茶も飲み終わった。もういいだろう。
(役目は無事果たせたみたいだぜ、コック)
その証拠にほら、彼女は微笑んでいる。
だが、常に食われていてはつまらない。アオイは梯子に足を掛けたところで、ロビンを降り仰ぎ、空気に声を滑らした。
「――――」
今まで見たことないくらいに呆然としたロビンを見納めると、アオイは喉を鳴らして下へと下った。
今夜は、ぐっすりと眠れそうだ。
(なんとなくだけど、)
(仲間との距離感が掴めた日)
(20120621)