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ミニメリー号に乗ったのがそもそもの間違いだったのだ。まさかナミがあんな運転をするとは思わなかったし、キツネが混じったケロベロスに追いかけられるのも想定外、何かおかしい生き物たち――ゾンビなんていう幻覚を見るのも、非現実的だろう。
(夢であってくれ!)
迫り来るゾンビたちから一目散に逃げ気を失いそうになるアオイだったが、ナミを背負うチョッパーに「頑張れ!」と声をかけられ、何とか足に力を入れた。屋敷まではあと少しだ。
「っとにもう、勘弁してくれ……!」
骸骨、幽霊ときたら次はゾンビか。じゃあそのあとは何だ? キョンシーか妖怪か、はたまたドッペルゲンガーか? 脳内にわらわらと沸き上がる嫌な妄想を振り切るように走れば、どうやら体力のないゾンビ達からは逃げ仰せたようだった。
「さァ着いたぞ……とにかくおれは水が一杯ほしい」
ウソップの声にアオイはほっと胸を撫で下ろすも、憧れの医者に会える喜びにはしゃぐチョッパーとは違い、その屋敷の不気味さに身の毛が弥立った。ナミの「まともな奴じゃない」という意見に激しく同意する。
「年中ハロウィン気分か……屋敷の主人は季節という情緒と理を知らない残念な人で決定だな」
「よし、いつもの嫌味が戻ってきたなアオイ! お前ェに怖がられてちゃおれ達全滅なんだから、頼むからしっかりしてくれよ!」
「は? 何だそれ」
どう考えても誉め言葉ではないウソップの台詞にひきつったが、まぁ命のやり取りが発生しかねない状況で頼られるのは一向に構わない。……が、今回はまずい。今回ばかりは例外、ちょっと待ってくれと言いたい。逃げ出したくなる足を抑えるのに、こんなに必死なのに。
震える唇を噛み締めると、チョッパーの心配そうな目がこちらを向いており、情けなくも眉尻が下がりそうになる。
(……いけない)
甘えるな。弱味を見せたら、周囲に伝わる。
「――とりあえず、中に入るんだろ?」
いつ来るとも分からないゾンビがいる外にいるよりマシだと3人を返り見る。その言葉は少しだけ震えてしまったが、彼等は気にした様子もなく頷くと、声を大にして叫び声を上げた。
神の手を持つと言われるドクター・ホグバック。そしてここのゾンビたちと、影を操る七武海ゲッコー・モリア。
(嫌な組み合わせだな)
カゲカゲの実について、詳細は知らない。だが、影を抜き取られた時の危険は身を以て記憶している。
ざわりと肌をなぜる生暖かい風が、アオイの喉元をいやらしくそよいだ。
*
(――あー、くそ)
気分が悪い。
目の前で繰り広げられる医者同士の会話に、自分でも驚くような軽々しいため息が出た。まるで馬鹿にしたようなその雰囲気にチョッパーが驚いた顔をするが、急いで「疲れただけだ」と曖昧に取り繕う。
(永遠の命か)
命の扱い方については否定も肯定もしない。それを言える立場でもない。だが、どちらにしろ他人を勝手に生き返らせるというのは、ひどく独り善がりだ。生き返らせた者も生き返った者も、仮初めのユートピアの中で生きるしかない。そこは、狂気の中心。
「……悪いが、ここに風呂はないのか」
いい加減話の内容が胸糞悪い。早くここを離れようとアオイがシンドリーに聞くと、彼女は既にお湯をためてくれていたようで、アオイはナイスタイミングとばかりに席を立った。
「アオイ、風呂入りたいのかー? どうせ帰りにまた汚れるのに」
「ゾンビに触られたところを徹底的に洗わないと気が済まないんだ。――お前らはもう少し話に花咲かせとけよ、チョッパー」
「私が先に入りたいわ」と文句を言うナミに背を向け軽く手を振り、アオイはシンドリーの後に続き廊下に出た。
コツコツと長い廊下を無言で歩く。シンドリーは何も喋らずにいるし、こんな広い屋敷なのに他に使用人がいないのはかなりの違和感を覚えた。
(これは、まずいな)
あちらこちらから気配がするのは気のせいではない。そういった類いは信じたくないが、気配には人一倍敏感な自分だ、これは気を抜けないと背中に冷や汗を垂らす。
「ここがお風呂。どうぞごゆっくり」
「あぁ、悪いな」
思ったよりも普通な風呂場に一安心する。シンドリーが去ったのを確認して、ストールをほどこうとしたその時だ。
背後から――近付いてくる強い気配。アオイはぴたりと静止すると、無言でホルダーを構える。あと3歩、2歩、1歩――
「誰だ」
振り返り、睨み付けようと思った――が。
(いない? 何も……?)
空白を呆然と見つめていると、目と鼻の先から獣の唸り声が聞こえてびくりと肩を震わせる。その隙を突かれ、ダンッと壁に両手首を縫い付けられた。
「な!」
「……お前、女だな」
何も見えないが、気配がある。また幽霊かと思ったが、それは自分に触れ、拘束している。
何だ、一体何が起こっているんだ。本当に勘弁してくれとアオイは内心泣きたくなった。
「あまりに粗野な女だと思ってたが……泣き顔はいいな」
「!」
ストールに何かが埋まり、べろりと首筋を舐められる。挙句の果てにそのゴツい手は脱ごうと緩ませていたインナーの裾から侵入したかと思うと、アオイの腰を撫で回し始めた。
(――――)
すーっと手はさらしを巻いた胸付近にまで近づく。
「…………っ」
「おい貴様、おいらの――」
ぷつんと。
何かが弾けた。
「触んなぁぁあ変態カス野郎!」
思いっきり蹴り上げれば、どうやら急所に直撃したようで「はうっ」と情けない声が上がった。途端、廊下に溢れかえるおどろおどろしい気配。慌てて“そのもの”から離れるが、部屋からは出られない。
(どこか――)
ぐるりと辺りを見回し、浴室の窓が目に入った瞬間、アオイは即座にワイヤーを繰り出した。
ガラスが割れる、抜け出す。落ちる。ワイヤーを木に巻き付け、反動で浮き上がり、着地。そのまま木から木へとワイヤーを飛ばし渡り続けて、立ち止まった。
――追う気配はない。切れ切れになった息を整え、木の枝にどかりと座り込んだ。静かすぎる木々の囁きが、寒々しかった。
(振り切ったか)
アオイは遠くになった屋敷を見上げた。置いてきてしまった3人を思い出し、しまったと舌打ちをしたが、もう戻れない。
このゾンビ地帯に自分一人という状況――顔を覆うしかない。
(……最悪だ)
どこからか聞こえる狼の鳴き声。闇天井に浮かぶのは、不完全な形をした真珠のベール。その光に一人包まれながら、アオイはだらりと木の幹にもたれ掛かかった。
(早く、誰か)
迎えに来てほしい。
誰にも言えない言葉を、胸の奥で縛り上げた。
(20120707)