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ざわざわと蠢く空気。夜の帳に紛れいつ襲われるとも分からない中、アオイは依然として木の上で息を潜め、辺りを窺っていた。
こういう状況は、今までにだってあった。狙った海賊に追われ一人暗闇に逃れたことなど、思い返せばいくつだって沸き上がる。――だが、そんな時に誰かに頼ろうなんて、思ったことは一度もなかった。
(まずいな)
思った以上に自分は麦わらの一味に感化されているらしい。
――迎えに来てほしい? いくら敵が得体の知れない相手だからといって、こんな情けない思考を巡らすとは、今までの自分ならまず考えられない。
そう、一人じゃないからといって、自分一人で出来るはずのことをしないでいいわけがない。
(考えろ、思考を止めるな。最善の手は――)
もし自分が一人だったら、どうする。いや、自分だけ助かるのは簡単だが、それは駄目だ。ナミやウソップ、チョッパーを救う手立てを――
そう考え詰めるたび、慣れないアオイの脳内回路はショートした。やはり一人のが気楽だと思えてならないが、そうも言ってられない。となると、一番安直な結論にしか行きつかなかった。
「……やっぱ、戻るか」
出来ることなら、もうあの屋敷には入りたくない。あの不可解な透明人間は恐ろしかったし、ホグバックはアオイが嫌悪する人種だ。だが、あの3人が敵からどのような仕打ちを受けるかも分からない今、迷ってはいられない。
それに、今頃帰りが遅い自分たちを心配し、他のクルーたちがこの島に乗り込んでいる可能性を思えば、少しは勇気がわくというものだった。
(よし)
立ち上がり、ストールをきつめに巻き直すと、アオイはホルダーを振りかぶった。
が。
(しまっ――!)
油断した一瞬の隙、後頭部に衝撃。アオイは沈み行く意識の下で、くそ、と舌打ちをした。
*
目を覚ませば檻の中――とは、物語の中だけだと思っていたが、そうではないらしい。うっすらと視点を合わせれば、今の自分の情けない状況にため息も出なかった。
(やられたな)
自分の影がないことを確認して、アオイは周囲を見渡す。そうして視界に映るソファに座った巨体を確認すると、ゆっくりと起き上がった。
歪んだ瞳と、かち合った。
「……モリア」
「キシシシ……早いお目覚めだな」
「過去に体験済みなんでね」
忌々しげに目を剥くと、だがモリアはそれすら楽しいと言ったように肩を揺すった。
「どうだ、久々に影を切り取られた感覚は」
「この上なく不快だ」
「キシシ、相変わらず生意気な野郎だ、無愛想なところも変わらねェ。……さすがはあの男の落とし子、ってところか?」
満面の含み笑いにアオイはピタリと動きを止め、緩慢な動作で顎を上げると、鋭い瞳を向けた。
「そっちも相変わらず、邪推がお好きなようで。よっぽど暇してんだな」
「勿論俺の身であるからには暇ではねェが、その暇じゃねーはずの七武海の一人が、ある日急に餓鬼を連れてきたんだ。そりゃあ話題の的にもなるだろうよ」
「…………」
「しかも今となっちゃあ海賊と世界政府側で敵同士! さっきてめェの手配書見た時は笑ったな……オウお前、そういや何の縁で麦わらのとこにいるんだ?」
興味津々といった具合に身を乗り出してくるモリアをねめつける。こういった詮索が一番嫌いだと、アオイはぷいっと横を向いた。
「お前には、関係ない」
「キシシシ、そう言うと思ったぜ」
モリアは何故か満足げに口の端を持ち上げる。そうして、より一層胸糞の悪い笑みを浮かべた。
「ま、だが俺は麦わらに感謝してんだ。テメェをここに連れてきてくれりゃあ、奴と取引出来るからな」
「な……!」
思わぬ発言にアオイの息が固まった。まさか。手袋が鈍い音をあげ、指が食い込む。
「てめぇ、何のつもりだ、モリア」
「何って。麦わらたちは影さえ手に入りゃあ用済みだが、テメェの影がおれの手中にあると知ったら……奴がどうするかくらいは分かるだろ」
「――助けに来るってか?」
俺を。
最後は言葉にしなかった。なぜならそれは、
「ありえない」
そう、断言出来るから。
自嘲すら溢れる口元は、いつもより渇いていて滑りが悪かった。それでも早口になってしまうのは何故だろう。
「あいつが俺を助けに来るだなんて万にひとつもありえねーよ」
「ん? どういうことだ」
「だから、」
笑うしかない。
「俺とあいつは、もう縁を切ってる。今となっては何の関わりもないし、音沙汰もない」
「とんだ検討外れだな」と肩を竦めてやれば、モリアは渋い表情をしてこちらを見た。
「おいおい、マジかよ。意外と淡白なんだなァ、テメェらの関係は」
知った口をきくなと奥歯を噛み締める。だが、事実といえば、そうだ。
恩を仇で返すように去ったアオイを、“あの男”が何も言わず黙って見送った、それっきり。それが彼なりのけじめなのかどうかは分からないが、縁が途切れたのは本当だった。
「……仕方ねェ。それなら保険くらいにはなってもらうぜ」
「保険?」
「もしおれの部下が麦わらを連れてくるのに失敗した場合だ」
「……餌ってことか、俺が。は、ははは!」
最早自嘲にすらならない笑い声を我慢出来なかった。この男は小賢しいが、詰が甘いとそういえば“あの男”が言ってたなと、片隅で記憶が震えた。
「――来ないよ、麦わらは」
思った以上に悲しい響きを帯びた呟きに、我ながら笑った。
「は? テメェら仲間だろうが、助けに来るに決まってんだろ」
「いいや、来ないね」
きっぱりと言い切る。
「あいつらにとって、俺の価値はそこまでだ」
自分で言って、苦しかった。モリアに対する言葉とは対極に陣取る自分の心は、ひどく哀れだ。
クルーはみんな優しい、楽しい。何かあれば手を伸ばしてくれる、励ましてくれる。短い間でも、それは嫌というほど分かった。だが、それを甘んじて受ける資格が果たして自分にあるのか。
船での役割、戦闘でもそう役に立たず、ゾロには未だ警戒され、挙げ句の果てには敵に捕らえられ、足を引っ張るこのザマだ。それでも来てくれるなんて、普通ならありえないのだ。
(でも、あいつらなら或いは――)
ダメだ。それだけは、絶対に。
(勝手な俺の事情で、巻き込むわけにはいかない)
あいつらは、来てしまう。或いはではなく、きっと、恐らくは、絶対に。ロビンの言葉が反芻される。
ーーどこまでも追ってくるーー
(モリアにだけは、悟られちゃならねぇ)
「――生憎と俺は、捕まったままなのは性じゃない」
ワイヤーを檻に巻き付け、そのままギュルルッと一気に引き戻せば、鉄の檻はバキンと音を立てて崩れた。
「お?」
くるりと後転して距離を置き、意外そうに目を見開いたモリアと向かい合う。影を取り戻すのなら、奴を潰すのが早いに決まってる。だが今の自分の実力でそれが可能だと思うほど、アオイは自惚れてはいなかった。情けない話ではあるが。
「またな、モリア」
一瞬。
ペンデュラムで窓を割り飛ばし、アオイは建家から逃げ去った。
――とにかく今は、一味の安全を確認するのが第一。
(頼むから、無事でいてくれ)
巻き込んだりは、しないから。
(20120730)