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 窓を突き抜け、そのまま闇宙に放たれる。やたら可愛らしく手入れされた木々が一気に眼下に広がると、アオイは咄嗟に腕を振り上げた。目がけるは太い木の幹。
 巻きつく。その軌道のままギュン、と重力を加速させれば、華麗なる逃走劇は完了だ。バシリとワイヤーをしまい、頭上を見上げた。

「モリアは……」

 先ほどまで自分がいた部屋は、ぽっかりと浮かぶ不気味な月とお揃いのように、ひんやりとした静けさで闇夜に佇んでいる。割れた窓のその奥からは――

(……追っては来ない、か)

 それはそうだろうな、と何を分かりきったことをとアオイはゆっくりと息を吐く。影を取った今、モリアは人質としての価値がないと判断した自分をわざわざ追うことなどしないだろう。
 ただ、死なれては困るので、部下にはこちらに手を出すなと伝えてあるかもしれないが。

(俺のことはどうだっていい。まずは、一味だ)

 それもこれも、あの屋敷から自分が逃げたからこうなってしまったのだ。情けないことだが、怖がってばかりもいられない。この後ろにいる人物がモリアであり、ルフィたちの影が狙われているとすれば、それはこれからのこの海域での戦力バランスに著しい影響を与えるだろう。
 (モリアの趣味だとしたら腹が捩れる)可愛らしい木によじ登ると、ホグバックの屋敷を遠く確認する。アオイはワイヤーの照準を合わせた。ナミたちがまだあそこにいるかもしれない。運が良ければ、もしかしたら一味全員が合流しているかもしれない。

 ーー状況。状況を確認しなくては。

 アオイは、気持ちの悪い焦燥感に襲われていた。モリアには、“あの男”の話題を出されたからか、考える余裕もなかったが。

(影を取られたのは俺一人と、あの骸骨だけか)

 迷惑ばかり、かけている――

(自分が標的にされて、ようやくどれだけの迷惑をかけていたかが分かるだなんて。軽率だった。想像力が足りなかった)

 やはり団体行動には向かないと、アオイは俯く。いや、これは言い訳かもしれない。影を取られた実力のなさを、自分の置かれている環境のせいにしているのではーー
 しかもその影を自分では取り返せない状況になって、ようやく一味と合流するときた。一味が心配なのは事実だが、それよりももっと、アオイという人間は、自分本位なのかもしれない。

 モリアの前では鈍っていた思考が解放されると、ネガティヴな感情がアオイをその場に縛り付ける。

(ここのカタをつけたら、別れよう)

 ぎゅっと口許を引き結ぶ。この罪悪感から逃れるには、そして自分らしく戻るには、そうするしかない。仮宿と決めてそう時間は経っていない今でさえこのザマなら、今後受ける影響など計り知れない。

(これは、俺のため。一味のため。そして骸骨のため全てにおいてウィンウィンな選択だ)

 合流する。助ける。モリアから逃れる。もう一度頭の中で整理し、今度こそはしっかりとワイヤーの照準をホグバックの屋敷に合わせた。
 ーーだがそこで横槍を入れるかのごとく、突如足元に湧いた気配にはっと下を向く。

(動物……?)

「番号〜!」
「1!」
「2!」

 木の下に急に現れた微妙すぎるペンギンたちに呆気にとられていると、こちらの気配に気づいたそれらとバッチリ目があった。

(まさか、こいつら)

「おい、こいつ影あるか?」
「たぶんねぇが、侵入者に容赦はいらないだろ!」

 背筋が――急激な気配にぞくっとわななくまま反対を振り返ればーー

「ようこそ、ペローナ様のワンダーガーデンへ!」
「ケチョンケチョンだァー!」

(やっぱりゾンビーーー!!)

 四方八方を囲まれ、身体は硬直。息も固まる。枝の上でまだ良かったと自分を鼓舞し無理やり息を吐いた途端、「降りてこい!」と木を根元から揺さぶられ、慌てて木の幹に抱きついた。

「おおお折れる折れる落ちる! 危ないだろうがカスゾンビども!」
「うるせー落ちろ落ちろ! 侵入者はギタギタにしてやる!」

 斧を振り上げた動物もどきゾンビによって、ドンっと根元を切られた。

「……っマジで落ちるー!!」
「よっしゃあー腐れ死ね!」
「おいおい、そいつ影取ったんだから殺すなよ!」

 刀を振り回すゾンビ。倒れ行く視界。下品な笑い声。全てが、スローモーションのようで。暗闇の中の刀の刃が、月光を受けてキンと一筋煌めいた。
 瞬間、思い出すのは。

 ――目を開け。切っ先を恐れるな。

 耳に消えない、懐かしい声。

 ーーお前は、お前の力でこの世界を生き抜かねばならん。

(……あぁ、知ってるさ。少し、忘れてただけだよ)

「シルク・ロード」

 アオイの瞳に、鈍色のモヤがかかる。放ったワイヤーを引き抜けば、弧を描いて血が放たれ、虚空を切り裂く。ゾンビの一匹が、悲鳴を上げながら倒れていく。

「……何の因果か、ゾンビ如きが過去を引き連れてくるなんてなぁ。だが、ようやく、本調子だぜ」

 ゆらりと構える。

「来いよ、相手してやる」

 狂ったように多勢のゾンビがアオイに襲いかかるが、アオイの放つワイヤーはそれを嘲笑うかのように、滑らかにゾンビの横腹を次々と切り裂いていく。断末魔の叫び声が上がる中、脇腹どころか心臓をそのまま狙い切り刻んで行くその姿は、あの明るい一味の人間とは誰も思わないだろう。ただ無心に、アオイは死にはしない敵の息の根を止めていく。
 あたり一面、木という木についた夥しい血の跡を見て、そしてそれをバックに平然と立つアオイを見て、残るゾンビは息を飲んだ。

「なんだ、大したことないんだな」

 と、冷徹な眼差しのまま再びアオイは腕を振り上げる。ペンギンが一匹。怯みそして、我武者羅に立ち向かおうと勢いづけたーー

「バイバイ」

 ーーが。

 ドン!と。
 響いた音に何事だとワイヤーを引く。次に聞こえたのは何かが地面に沈む音。倒れていくゾンビ。それを倒したのが同じくゾンビであるはずの別のペンギンだと認識して、アオイは目を見開いた。構えた腕から、力が抜ける。
 その様子に、他のゾンビが声を荒げた。

「おい、何が起きた!?」
「あいつが蹴りやがった!  新入りか!?」
「きっとそうだ!  おい新入り、仲間割れしてる場合か! 何やってやがる!」
「うるせェクソゾンビ共!」
「!」

 その言葉遣いは、どこかで聞いたことがあって。アオイの冴えきっていた思考は、一気に真っ白になる。

(……まさか)

「あ゛ー、クソムカつくぜ。何でてめェみてーな奴の加勢してんだ、おれは」

 この口調、態度、そして、超人的な蹴りを持つその足技。
 ――間違いない。

「コック、お前……」

(モリアか)

 そしてアオイは、目の前のゾンビをサンジと特定したと同時に、この状況の各ピースからこの島の生き物の正体を導き出した。

(ホグバックの蘇生、モリアの影。ここにいるゾンビは……)

「ーーほんとに下衆な野郎だな、あいつは」

 自分の影も、どこかに落とし込まれたのだろうか。
 それにしても、この時間差でサンジが捕まったとは何ということだとアオイは頭を抱えた。タイミングが悪すぎる。もう少し自分がモリアの元にいれば――

「その野郎は侵入者だ、新入り!」
「そうだ! なぜおれたちと敵対する!?」

 このゾンビ達の言う通り、影は主人の命令には逆らえないはずだ。以前奴の影遊びに付き合ったこともあり、それは熟知している。もしかしたら自分の影も同じようにされているかもしれないが、それなのに、なぜ、目の前のこのコックの影はーー

「そんなもん、おれが聞きたい」

 首をかしげて見せるペンギンの背中に、アオイは目をかたく瞑る。無意識に守ったというのだろうか、この影は。
 ふと過る記憶、エニエス・ロビーでのこと。CP9の女に負かされ、ボロボロになり果てそれでも尚言い放った彼の騎士道。

「ただ、こいつが血まみれになるのを見てられなかったんだよ」

 耳を疑った。思わぬ台詞に、アオイの脳内は整理が追いつかない。
 何を言っているんだ、このペンギンは? いや、その中にいる男は。甘ったれなのか。自分自身も、ルフィもゾロも、相手に血を流させているというのに。クルー全員、その手を血に染めているだろうに。

「はぁー!? 何言ってんだ!」
「それはおれたちの血だっつの!」

(……そんなところまで紳士なんだな、お前は)

 本人だったら、決して口にはしなかったろうが。自分は頼りなく見られていたということだろう。

(守る対象だってか? 俺が)

「……優しいのも困ったもんだよ、お前」
「ぁあ!? 誰が優しいって!? 」
「いや、こっちの話だ」

 そう、このペンギンの中のコックは“仲間”だから助けたわけではない。これからの自分の行動だって、仲間だからそうするわけではない。
 アオイは本人には絶対に向けてやらない笑みを浮かべながら、振り返る。これが、最初で最後だ。

「ありがとな、新人ペンギン」

 生きる理由がある。助ける理由も、そのためだ。決して、共にあるためではなく。
 サンジの影が入ったゾンビが戦う背中を見ながら、アオイはポシェットから液体の入った小瓶を取り出し蓋を開けると、鉛のワイヤーに降り注いだ。

(これは、最後の手段にとっておきたかったが)

 ここで使うのも、悪くはない。

「おい、新人」
「ぁあ!?」

 最高に不機嫌そうなサンジのゾンビに、アオイは笑った。

「オレの矜持だ。受け取れ」

 振り上げる。ひん曲がった口元へそのまま鉛玉がーー入り、そして。

「ぁあー!」
「新人が!」

 勢いよくペンギンは木の幹に叩きつけられると、そのすぐ後に影がすぅっと夜空に消えていく。水滴を飛ばしながら巻き戻るワイヤーを収め、アオイは満足そうにホルダーを撫でた。

「ま、まさか、海水……!?」
「お前、秘密を知ってるのか!」
「ふふ。紳士には、紳士で返さないとな」

 少し手荒だったが。

「これで貸借りなしだ、コック」

 もう、足枷はない。誰にも、俺にも、お前にも。

「さて、てめぇらの正体に確信が持てた今……俺は何も恐れない。――どうする? ゾンビども」

 キャスケットのツバを掴み、軽くあげる。ふっと笑うと、アオイはもう一度瞳の奥を滾らせた。

「俺には用があるんだ。邪魔するなら、容赦はしないぜ」

 一味を逃すのは、俺の役目だ。

(20160914)
Si*Si*Ciao