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「だからね、意識があるからハンコ押してくれないわけよ。相手が寝てる間にね……」
「寝込みを襲うの!? いいの!? それ人として!」
「ローラ、あんたゾンビじゃない」
「盲点! それって腐れ盲点だったわ!」
恋だの結婚だの。
ナミとメスイノシシのゾンビ、ローラの会話はそこらのオシャレなカフェで交わされる女子トークとなんら遜色ないほど煌びやかで、聞いているだけしかないその他男性陣は完全に取り残されてそこに棒立ちになっていた。
「女とは恐ろしいな……寝てる間にハンコ押すのに何の罪悪感も抱かねーのか」
「女というか恐ろしいのは主にナミだ。他の女と一緒にしちゃいけねェ」
「何か言った? ウソップ」
「いえなにも」
挙げ句の果てには気絶させるだの何だのと不吉極まりない対処法を述べるナミに、アオイは一応女として嘆息せざるをえなかった。
(契約って、重いものだと思うんだがなぁ)
*
ローラに追われたのは、あのナミの渾身の張り手を喰らった後、とにかく一旦船に戻ろうと結論を出した直後だった。動物ゾンビのほとんどをアオイが始末したため、何の問題もなくそこを去れると思っていたのが甘かった。
「待てローラ!!」
聞き覚えのある声に、忘れもしない声にアオイの背筋は一瞬で震えた。そうだ、ゾンビの謎は解明したが、自分がナミたちと逸れる原因を作ったあの透明人間に関しては、未だ何の正体も掴めていない。
ナミの話、また自分に向けられた視線から、男のような何かとは分かっているのだが――
(あの野郎にも、きっとカラクリはあるはずだ)
ここでは、自分は一人ではない。賢い3人が集まっているのだ。慌てずに対応しようとアオイはホルダーを構え、遠く声のする方を睨みつけた時。
なかなかインパクトのあるゾンビが全速力でこちらに向かっているではないか――
(すげーメルヘン且つグロいイノシシだな……)
これは影の主の影響なのか、それとも器としてのゾンビがこうなのか。アオイは若干の肩透かしを食らった気がした。――ひきつる喉を抑えるのに必死だ。
「見つけたわよそこの女ァ! この泥棒ネコめがァ!」
そのメスイノシシのゾンビはナミに向かって斧を振りかざそうと助走をつける。まだ何も盗んでいないとはナミの言い分だが、この暴走相手に伝わるはずもない。
「アブ様は渡さないってのよォ!」
チッと舌打ちを一つして、アオイは急いでホルダーを振り上げた。
「――可愛い格好が台無しだぜ、イノシシゾンビ」
鉛のワイヤーは斧の柄に絡みつき、ゾンビが一瞬驚いた隙を見逃さず引っ張り上げると、斧は鈍く光りながらアオイの真後ろに弧を描いて飛んで行った。
「な、何すんのよあんたァ!」
「アオイ!」
「怪我は、ナミ」
「……! えぇ、大丈夫よ!」
「そうか」
言いかけた瞬間、アオイは隣にいるナミとの間に以前感じた気配を嗅ぎ、思わず振り返る。気配はある。いる――だが、どこだ?
気配はほんの僅か止まり、こちらに意識が向いた――と構えた瞬間だった。気配はすぐに動いたかと思うと、ナミの身体を(おそらく)抱えそのまま連れ去ってしまったのだ。
「ナミ!」
「花嫁は戴いた! さァ今すぐ式を挙げるぞ! もう準備はできているんだ!」
――花嫁?
「えぇ!? ナミが飛んでる! スゲー!」
「バカちげぇよ、ありゃ担がれてんだ」
「あんたも分かってんなら助けなさいよアオイ! 攫われてんのよ!」
アオイは慌ててウソップたちと宙に浮いたナミの背を追う。ウソップがようやく透明人間の仕業だと気付くと、それに答えるようにアオイはこくりと頷いた。
「あ、姿出てきた!」
「後ろ姿は人間だな」
「あいつ、航海士を花嫁にするって言ってた」
「なにー!? サンジに殺されるぞあいつ……」
と言いながら走っている間に、雷撃が透明人間を直撃した。
(クリマ・タクトだ)
その威力はまるで魔法のようで、透明人間は倒れこそしないがそのままそこに棒立ちとなった。それを3人は追い越し、転がったナミを助けに走る。
アオイは例の透明人間――獣のような口をしている――を振り返り見つめ、その黒焦げた姿を目に焼き付けた。
科学の力だ。
「よくやったナミ!」
「あの獣のような風貌。あいつはやっぱりゾンビなのか」
「悪魔の実の可能性もあるじゃない! なによりゾンビってだけにしては透明になるなんておかしいわ!」
「……たしかに」
思い返せば、魔の三角地帯で見かけたアオイの毛嫌いする不思議現象は全てに悪魔の実が関わっていた。ということは、ナミの言葉の可能性も十二分にあり得る。
(悪魔の実って、何なんだろうか)
「つーか今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ! このまま森を離れるぞ!」
「逃がさないわよ! この泥棒ネコ!」
*
――そして、現状に至る。
転んでもただでは起きないと呟いたウソップは呆れた顔でナミを見ていたが、むしろアオイとしてはナミのその機転の利いた発想、堂々とした立ち居振る舞いに心底感心していた。
自分をすぐさま男と偽り、更には敵を懐柔して欲しい情報を引き出す――戦闘としての動きはまだまだだが、ひょっとしたら一味で一番生存確率が高いのはこいつかもしれない)
この的確な判断力は、今の自分に一番不足しているものだ。いや、一人で生きてきた判断力はある。だが、誰かとともに、となるとまた違うのだ。そういった意味では、現状を一人で打破する力のないこの3人こそが、より頭を使ってこれまでの修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。
財宝置き場をローラから聞き出すナミを見ていたアオイだが、すぐに遠くの存在に気付いてハッと身を起こした。透明人間の時とは違い、今となっては気配を隠すことすらしていない。
釣られてウソップも顔を上げ、一瞬で顔を青ざめさせた。
「おいナミ! あいつが追いついてきたぞ!」
「ほんと!? ローラ、アタックチャンスよ! 私は二度とあいつに会わないから大丈夫!」
(完全に手の内だ)
先ほどまでの敵は、まるで友情を感じたかのようにナミの言葉一つであの透明人間――アブサロムというらしいが――に向かっていった。
それから目をベリーにしてローラを讃えるナミには苦笑も禁じえないが、それでもやはりアオイは目の前で行われた素晴らしい対処法に胸が躍ったのだ。
「お前って凄いんだな」
「ナミ」
「……え?」
キョトンと目を合わせれば、強気な航海士は挑発的な瞳でアオイを見上げた。
「さっき呼んだじゃない、私のことナミって」
「そうだっけ」
慌てており、あまり気にしていなかったが。
だが、それだけのことで、目の前の彼女は嬉しそうに笑うのだーー
(なんか、やりにくいなぁ)
走りながら、こんなことではいけないと思考を切る。屋敷と城に挟まれた橋。逃げたところで逃げ場はない。
(……これしかないか)
アオイはホルダーを見る。右の肩パットに埋め込んだダイヤルを左手で撫で――
「チョッパー」
「なんだ? アオイ」
「お前、デカくなってウソップとナミを抱えられるか」
脈絡なくアオイが問えば、四つ脚で忙しなく走るチョッパーは疑問を顔に隠しもせず、だが余裕といった感じで「もちろん」と返した。
「よしチョッパー、ウソップを担げ。ウソップはナミを担ぐ」
「ちょっと何するつもりなのよアオイ!」
「おれがナミを!?」
「このまま走ってても埒あかないだろ」
行き止まりになるのは明白だ。
「俺に考えがある」
そうアオイは凛と声を響かせた。いつもの声色よりそれはすんなりと耳に入り、チョッパーはアオイが、初めて、素での声を出したのだと悟った。
それに信頼を感じ固く頷いて人型になると、ウソップに目線を合わせる。視線の泳ぐウソップはそのままナミを見つめ、諦めたように彼女を担いだ。
「あぁもう、何が何だか分かんねェがアオイに任せるぞ!」
「……ああ、ありがとう」
ウソップをチョッパーが片手で抱える。2人はたなびくように宙へと浮いた。
「チョッパー、俺の腰に手を回せ」
「え?」
「いいから早く!」
「くそ、このままではオイラの花嫁にも当たる……!」
アブサロムの手がこちらに向くが、何かをする気配はない。その代わり走るスピードは上がっている――チョッパーのフサフサとした腕がアオイの腰をガチリと捉えた。アオイはそこまでを確認してから腕を振り上げると、ホグバックの屋敷の屋根にワイヤーを巻きつける。
「いくぞ!」
「って、」
「ええええええ!!」
巻き取る。
浮遊。
いつもとは違う重力。腹にかかる圧。腕にかかる重み――
(俺が守るんだ)
「おおおオレ、空飛んでるー!!」
「すげェ、アオイ!」
「ちょっとウソップ、手緩めるんじゃないわよ!」
「おい、お前ら揺れるなよ」
その直線のまま、屋敷の屋根へ飛び降りる。3人は上手く止まれず屋根から滑り落ちそうになるのを、アオイはギリギリとホルダーを支えてかろうじて防いだ。
(もっと筋力がいる)
「ここから見たら分かるな。このままほとんど直線距離に、サニー号がいる」
そんな冷静なアオイのコメントも、興奮した男性陣には1mmも伝わらない。
「これ、いつもアオイは体験できてるのかー!」
「すげェ気持ち良かった! 夢の空中浮遊だ!」
「ちょっとあんたら! 安心するのはまだ早いわよ!」
そう、アブサロムを引き離したとはいえ、向こうの手の内はまだ見えない――早く船に戻らなければ。
(直線距離としては3〜5回飛べばいけるか)
ホグバックの屋敷前に広がる森を見渡し、アオイは最短コースの木を瞬時に選んだ。
「いくぞ、捕まれ」
「よしきた!」
ペンデュラムを飛ばす。
太い幹に巻きつく。
カチリと止まった、右肩に手応え。
「目、回すなよ!」
今度は下に向かって飛ぶのだから勝手が違うため、アオイはワイヤーを巻き取るスピードを一段と上げた。
ビュウと身体にかかる圧。目に打ち付ける風――!
「ぎゃああああ!」
「早ェ早ェ早ぇよアオイ!」
「私たち初心者なのよ! 手加減してー!」
「物理的に無理だ」
城壁目指して一直線に飛ぶが、下に飛ぶのは打ち付けられるギリギリをいきそうになるのだ。耐性がなければ恐ろしいのも当たり前だ。
すぐに一本目の木に辿り着いたが、アオイ以外の3人は飛んでる間中叫び続けて体力を消耗しており、地面に立つのもやっとだった。しかもスピードは音速に劣るとはいえ、普段なら体感したことのない速さだ。体が悲鳴をあげるのも仕方ない。
――だがアオイはこの運動に慣れているため、ケロリとしている。
「すぐ次いくぞ」
「まっ……!」
「ぎゃー!」
今度は上に飛ぶ。
乱高下を繰り返され、慣れない3人にはもしかしたら負荷が高いかもしれない、と今更ながらアオイが思い至ったのは、最後のワイヤーを飛ばすタイミングだった。
(あと少しだ)
城壁の窪みにペンデュラムを飛ばす。硬い感触。いける。
ぐんとワイヤーを巻き戻し、一瞬で空に舞ったその時だ。ウソップの容態が急変した。
「うぇ、気持ち悪っ……!」
「え、ちょちょっとウソップ腕緩めないでー!」
「……ナミ!」
城壁が間近というのに――ナミが、
「きゃぁぁああ!」
――落ちた。
(20160928)