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「そもそもテメェは、おれにとっちゃ大事な賓客だぜ? さっきもくまと、テメェの話を少ししたところだ……そんな一味で海賊ごっこしてねェで、もう少し頭を使えば何が得策か、テメェになら分かるだろ」
ニヤニヤと馬鹿にした顔を隠しもしないモリアに、アオイは返す言葉がなく唇を噛んだ。
頭を使う。そうだ、一人でいるとき、モリアに対峙した後すぐ、考えていたことだ。奴が今こうして目の前にいるなら、好都合。これ以上のチャンスはない――
麦わらの一味への謝罪も込めて、これくらいは身体を張らなければ。
「……俺を賓客扱いってんなら、俺の影は大事に保管してあるんだろうな?」
「もちろんだ」
「じゃあ、取引しようぜ」
サラリと当たり前のように言うアオイの言葉に驚いたのは、取り残された一味全員だ。ゾロは怒りの表情を隠しもせずアオイの肩をひん掴むと、無理やり身体を自分の方へ向けさせる。
「テメェ、此の期に及んで何考えてやがる……!」
「お前らの悪いようにはしない。言ったろ、全員逃がすって」
差し出すものは、条件でしかないけれど。好転するか分からないが、モリアの策士的な性格に賭けるしかなかった。
だがゾロの力は強くて、女であるアオイの力ではその腕をなかなか振り払えない。身をよじるも、今度は二の腕をキツく握られる。厳しい瞳は、やはりあの男に似ていた。
「ルフィの言葉、忘れたのか」
「あ?」
「船長命令だぞ! 勝手な真似はするな!」
「その船長がいねーんだから、独断で動くのも致し方なし、だろ」
なにを、と言いかけたゾロを置いて、アオイは身体を捻ってモリアを見上げる。モリアは暴れたそうなオーズをたしなめると、興味を示した瞳でアオイを見返して、言葉を待っていた。
(俺に、できること)
「さっき話してた、俺をダシにして“あいつ”をここに呼ぶっていうの、飲んでやる。だから、麦わらの一味は見逃せ!」
「ほぅ……」
アオイの叫びに、一味は呆然とした。だがサンジは一人ぼそりと「そういうことか……」と苦々しく言って、放り投げたタバコを踏みつけた。
「とすれば、やはりテメェとあいつはまだ繋がってたってわけか」
アオイの無言をしばらく待って、モリアは酷くわざとらしく悲しげに首を振った。
「まァ、残念だがそれだけじゃ弱ェ。あいつもテメェに呼ばれりゃ来るかもしれねェが……あの時と状況は変わって、俺は既にこのオーズを手に入れている。これ以上の影――つまりは奴の影が手に入るってのが明確な前提条件でねェと、今更この取引に魅力は感じねェなァ」
アオイはチッと舌打ちをする。やはり、モリアは自分以上に打算的だ。アオイの取引の中身が伴わないのを、見透かされている。――そう、ここに自分が残ったからといって、彼が来るかどうか。アオイのために動くかどうかは、別問題なのだ。
そうして恐らく、彼が来なければいいと。寧ろ来てもらっては困ると、そう心の奥で思っている自分を、モリアは勘付いているのだ。
(勢いでやり込める相手じゃ、なかったか)
甘いところがあるのは、俺か。
キシシシと高笑いをして、モリアは一層楽しげにコクピットからこちらを覗き込んだ。
「それにしても、身を呈すこともできねェ立場のくせに、その一味に肩入れするとは! 昔の打算的なテメェからは想像もつかねェ。とことん馬鹿野郎に成長したもんだぜ!」
そうだ、自分はここを打開する力もなく、自分以外の誰かを、力を囮にするしかない。立場として、状況として、自分にできることがこれくらいしかないという事実が、堪えた。
どうしてこうなってしまったのか。迷惑をかけないように生きてきた。自分だけで世界は完結していた。
それなのに。
全ては船に乗ってしまった自分が甘かったのだ。誰かと共に行くという、光という誘惑に負けたことへの、これは罰だ。自分の弱さを惨めにも浮かび上がらせるという、火あぶりの罰なのだ。
「おい、マリモ。手ェ放してやれ」
いつの間にか側まで来たサンジがゾロへそう言うのに驚いて、アオイは慌てて声の方を見上げた。
サンジはアオイの前に立つと、静かに新しいタバコに火をつける。それからゆっくりと煙を吐き出し、ぽつりと、同じくらい静かな声色で言った。
「これが、テメェの言ってた交渉だな」
「……そうだ」
「で、モリアの言う"奴"ってのは、何者だ?」
「…………」
答えられないアオイをじっと見守って、サンジはやれやれと息を吐く。
「――お前がそんだけ渋るってことは、大事な奴なんだな?」
「……恩人、だ」
ぼそりと言えば、予想していたのか、サンジは「やっぱりな」と横を向いて、頭をガシガシとかいた。
「確かにおれは、適材適所はあると言ったが――捨て鉢になるのとは違ェだろ。……それで、その恩人にどう顔向けするつもりだ」
厳しくも、言い聞かせる声だった。彼に何か思うところがあるような、少しだけ節に濁った溜まりがある、そんな言い回しだった。
「恩を仇で返すな。それが唯一許されるのは、全て捨てる時だ」
――なぜ、こうも、分かった風に言うのだろう。これが頭ごなしに言われたのであれば、アオイにだって反発する余地はあったのに。
お前らのためなのに、と。
だが、あまりにそれを真摯に言われるから。それを言うサンジの心が、嘘偽りなくアオイと向き合っているのが、その瞳の揺れから分かって。
(そんな悲しそうな目は、ずりーよ)
「……何でお前が、そんな顔するんだ」
「似たような心境を、おれも知ってるだけだ。……それに」
ふー、と整った顎のラインを覗かせながら紫煙を立ちのぼらせると、サンジは遠くを見つめた。それから急に雰囲気を一変させたかと思うと、アオイを見下ろした。
「それに?」
その顔は、どこか悪めいたもので。
金色が、さらりと揺れた。
「恩ってンなら、おれもお前の命の恩人だろ」
「……あ」
「助けた命、無駄にする真似したら許さねェからな」
(スポーツマンシップなんじゃ、なかったか?)
借りは返したはずだ。だが、そうだった。彼は命を救ってくれたのだ。それからの彼とのやりとりで、その重さをすっかり忘れてしまって、ただ“なんとなく恩がある”ことだけを考えていたが。
命。
(命と引き換えの何かを、俺はこいつに返せただろうか)
アオイは、今ここで初めてそれを考える心境に至ったことに気づき、更に情けない思いに駆られた。なんという恩知らずだろう。影の奪還は、影でしかないのに。
さらに重ねて、育ての親の恩にまで背くつもりだった自分に、さきほどのサンジの叱責が心臓に近い部分まで染み入って、ただ恥じた。
二人の様子を黙って見ていたゾロは、今になって肩を落とすアオイを呆れたように見て、既に放していた腕を組みながら言った。
「どっちみち、モリアはテメェが今提示できる条件じゃ飲む気ねェんだ。諦めて船長命令に従え」
――勝手なことはするな! モリアはおれが、ぶっ飛ばす!――
思い返して、なぜだか泣きそうになって、アオイは俯いた。船長。ルフィ。光の、根源。
(俺が弱いのは、あの船長の光だけじゃないみたいだ)
「ふふ。――取引は、どうするの?」
花が咲くように笑ったロビンが、背中を押してくれたような気がしたのは、何故だろう。
アオイはそれに少しだけ弱った笑顔を向けたあと、クルーたちを順番にゆっくりと眺め、最後にオーズの方へ視線を向けた。
諦めとも違う、それは澄んだ瞳をしていた。
「モリア、悪い。俺がお前に差し出せるものは、最初から何も無かったみたいだ」
「キシシシ……まァ、これで思い残すことなく全員潰せるぜ」
腹はもう、決まった。クルーがこんな自分でも、恩に報いて共に戦うことを受け入れてくれるなら。
まずは船長命令という大義名分に集おうと、アオイは晴れやかにホルダーを構えた。
(20161118)