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「なかなか目を覚まさないわね」
「負傷具合はおれたちとそう変わらないはずなのに、どうしたんだろうアオイ……」
サニー号の中庭で、ナミは自分の横で静かに眠るアオイを見つめた。
ゾロの負った傷は、生きているのが不思議なほどの深さだった。彼を発見したサンジの話では、仁王立ちするその足元には夥しい血があったとかで、ゾロはホグバックの館に絶対安静で寝かされている。緊急手術並みの処置を終え船に戻ったボロボロのトナカイは、同じようにボロボロになって横たわるアオイを見て、ふにゃりと涙ぐんだ。
「で、でもサンジ、途中までアオイは意識あったんだよな?」
「――あぁ、それは間違いねェ。会話したしな」
ウソップに話を振られたサンジは、タバコを噛み締めて言う。
「マリモとくまが対峙してた時、こんなんなってるくせに割って入ろうとしたくらいには意識があったぜ、そいつ」
「そ、それも凄ェな……」
ウソップが冷や汗をかいて呟けば、ナミが深刻な顔をしてアオイの青白い顔を凝視した。
「……不思議な奴ね、アオイって。思えば私たち、こいつのこと何にも知らないんだわ」
なんとも言えない沈黙が流れて、全員がアオイをぼうっと見つめる。
「つーかよ、おれはこいつの帽子外したのだって久々に見たぜ」
「そうね。エニエス・ロビー以来じゃないかしら。……それだけ彼は、素顔を出したがらない」
フランキーの言葉にロビンが重く頷けば、空気の居場所を奪うかのように沈黙が存在感を増す。
「ロビンの言ってた、鷹の目の養い子……それに、ポーネグリフを読めること……可哀想だけど、アオイの目が覚めたら、聞かなきゃならないことがたくさんあるわね」
ナミが苦しそうにそう言った時、何故か元気全開のルフィが眉をひそめて声を荒げた。
「なんだよ、おれはアオイの過去なんて興味ねェぞ!」
「それで一味が分裂しちゃ意味ないでしょ! もしアオイが敵だったらどうするの? ルフィあんた、アオイのことぶっ飛ばせるわけ?」
「う……!」
「――ナミさんの言う通りだ、ルフィ。クソチビのことは、このまま野放しにはできねェ」
サンジは瞼を閉じたままのアオイから目を逸らさず言った。睫毛の影が頬に映え、いつもの勝気な気配は鳴りを潜めている。アオイの眠った顔は、常とはまるで別人のようだった。
「……ま、連れて来ちまったのはおれだ。こいつにはいい加減腹割って話すように、おれからも伝えとくさ」
新しいタバコに火を付けてやや気取った時、ナミの小さく笑う気配がして、サンジは目をぱちくりさせた。
「ん? なになに、ナミさん? もしかしておれに愛の告白――」
「おバカ。そうじゃなくって。サンジくんて、率先してアオイの面倒見るわよねって話」
クスリと人の悪い笑みを浮かべるナミに、サンジはぎょっと肩を跳ね上げた。
「ふふ、そうね。……いつだったか、彼があなたの作った差し入れを持って、私のところへ来てくれたことがあったわ」
「へぇー初耳! この船で紳士の役は自分だけ! じゃなかったの?」
ニヤニヤと頬杖をついて見るナミの表情は、完全な揶揄うそれである。サンジは苦笑った。
「そんな。誤解だぜ、レディーたち。さっきも言った通り、おれには一応こいつを拾った責任があるんだ」
「責任ねぇ」
和やかに笑う。戦いの後の、それは少ない休息の時間だ。目が覚めれば、彼は本心を語らなければならない。この船に乗るにしろ、降りるにしろ。そうでなければ、筋が通らない。彼に手を差し伸ばした、それは自分の義務でもあるとサンジは思っていた。
それまでは、せめてゆっくりと眠ればいい――
サンジはゆっくりと目を伏せて、中庭に横になってそのまま眠りに就いた。
*
あの記憶が、耳にやまない。
懐かしい響きだった。でもそれが誰かは、思い出せない。父のような気もするし、仲の良かった小さな友達のような気もする。――そして、あの男のような気もした。
目を開けろ。
そう、よく指導されたっけ。
「あ、アオイの目が覚めた!」
辺りを鈴を鳴らすみたいに駈ける声に、そういえば自分はアオイだったかと思考が晴れていく。名前を忘れたわけじゃなかった。咄嗟に名乗ったこの名前が、思いの外しっくりきてしまったのだ。そうしてそれは、この世界で自分が「これで」生きていくという、意思の表れでもあるのだ。
アオイがゆっくりと瞬きをすると、視界に可愛らしいトナカイの顔が映る。泣きたいのか笑いたいのか、分からないといった表情だった。
「……チョッパー」
「アオイーっ、大丈夫か? 痛むところはないか?」
「そこら中いてぇけど、ふふ。でもこれくらいは大丈夫だ。ありがとう、チョッパー」
緩慢な動作でアオイが起き上がると、チョッパーが慌てて背中を支えて抱きおこす。それに軽く礼を言って、アオイは辺りを見回した。チョッパー以外は誰もいないが、ここはサニー号の中庭だ。何やら溢れんばかりの宝石やら黄金がドッサリと置かれているが、そこで安全に横たわれる、ということは。そして周囲がやたら明るい声で騒がしい、ということは。
「……おれが寝てる間に、くま撃退ってか」
眉をひそめながら笑って言えば、チョッパーは複雑そうな面持ちでアオイと向き合った。
「それが、おれたちにもよく分からないんだ。――ただ言えることは、おれたちが目を覚ました時にはあの七武海はいなくなってて、ゾロが重症を負ってた。それから、アオイが目を覚まさなかったってことだ」
「――そういえば、海賊狩り! あいつ無事なのか!?」
ガシッとチョッパーの両肩を掴めば、彼は少しだけ驚いたものの、張りつめていた表情を綻ばせた。
「心配するな! ゾロが無事か……っていうと、正直あんなゾロを見たのは初めてだけど。でも、命は助かったぞ!」
「……そっか」
(であれば、俺の試みは失敗したんだろうな)
だが、生きていたのならそれでいい。いらぬお節介だったというわけだ。あの驚異的な精神力と、忍耐力と、そして。
絆の前には。
「……ところで、アオイ」
「ん?」
声をひそめるチョッパーに、アオイも静かに体を寄せる。
「お前、そのジャケットもだけど、中の服もボロボロだぞ。色々危ないと思って襟とボタンは合わせといたけど、替えはどこに置いてあるんだ?」
――なるほど。なんて機転の利く可愛い子なのだろうか。アオイは助かる、と息を吐いてから、チョッパーの額を撫でた。
「さすがチョッパー、ありがとうな。インナーはアトリエのチェストに置いてあるし、ジャケットはまぁ……正直、これしかないんだけど」
「――あら、アオイ起きたのね!」
ガチャンと女部屋の扉が開く。そこから快活な美女が姿を現すなり、アオイの下まで小走りに駆け寄った。
「良かったぁ、もうずっと目を覚まさないんだもの、さすがに心配したわよ」
「悪い。自分で思うより疲れてたみたいだ」
オンボロ服を纏うアオイをその目に認めて、ナミは憐憫を滲ませた声を出した。
「……アオイあんた、男にしてはせっかく繊細な見た目してるんだから、そんなみすぼらしい格好はこれっきりにしたらどう?」
「はぁ……」
頭をガシガシとかいて、横に伏せられていたキャスケットを深く被る。
「みすぼらしいだの、余計なお世話だ」
「そんなこと言って、誰かにお世話にならなきゃ流石にヤバイわよ、その服」
アゴでくいと問われ、改めて自身の服装を見直せば、破けて穴が開いて、確かに貧相この上ない。
「まぁ、確かに着替えるべきだけどさ」
「じゃあちょうどいいわ。似合うの見繕ってあげるから、服選びなさいよ」
「……? どこに服があるってんだ。その財宝の山の中か?」
首を傾げれば、ナミは腰に手を当て呆れた顔をした。
「まさか。私のを貸してあげるって言ってんのよ。体型的に男たちより近そうだし」
「……んん?」
聞き間違いだろうか。この女は、女の服を――それも派手好き露出好きのその服を着ろと、自分に今言ったか。
「ちょ、ちょっと待て。いくらなんでもそれは」
「何よ、華奢な男なら女物着ることくらいあるでしょ」
「いやいやいや! 俺はちゃんと予備あるし、何もお前の借りなくても」
ナミを制すように両手で全力の「待て」を示していたところに、ダイニングキッチンの扉が壊れる勢いで開かれた。
「ゴルァァア聞き捨てならねェぞクソチビィイ! ナミさんの神聖なるお召し物に何の用だ貴様ァ!」
「あーー煩いのが来た! てめぇが来ると話拗れんだよ、すっこんでろラブコック!」
「こんな由々しき事態にすっこんでられるか! おれァ許さねェぞ、てめェがナミさんの、ナミさんのぉぉお!!」
いつの間にやら瞬間移動ばりのタイミングで真横に現れたサンジを、アオイは舌打ちをしてうんざりと見遣った。
(ナミが花嫁として攫われた時みたくヒートアップしてんな)
「うるせぇな、俺だってンなの着るつもりは微塵もねぇよ!」
「――あぁ、そう。私のを着るのが不服ってんならアオイ、あんたが持ってるその予備の服って何色なわけ?」
アオイとサンジ、お互い襟を掴んで取っ組み合いが始まるかという時。ナミから発せられた意図のわからぬ質問がその場を制した。
「は? グレーだけど……」
「はい却下! 今と変わらないじゃない!」
「それの何が悪い!」
「服の色合いが気に食わないのよ。宝石職人のくせしていーっつも地味、軍服みたいな色合い!」
「な!」
「……そうね、私のを着ないっていうなら、せめてサンジくんの服を着るべきね」
停止。
「え、ナミさん、今何と……?」
「…………?」
「だから、サンジくんの服ならオシャレだし清潔だし、アオイにはちょうどいいんじゃない? ってことよ」
(なんだと……!?)
蒼ざめて冷静になったアオイと違い、サンジはナミからファッションセンスを褒められたことへの喜びからか、くねくねとハリケーンを吹き荒らしている。
「ちょ、待て待て! 明らかにその発想はおかしい!」
「何でよ。私はあんたを着飾りたいの」
「てめぇの欲望を勝手に押し付けんじゃねぇ!」
「んナミすわぁん! こいつにおれの服をやれば、ナミさんの麗しいお召し物はクソチビの毒牙から逃れるんですね!?」
「その通りよサンジくん」
「合点承知ー!」
「承知じゃねぇぇえ」
こちらを哀れんで(いや恐ろしがっているとも取れる)チョッパーの潤んだ瞳に、アオイはいよいよ顔色をなくして叫んだ。
「ふっざけんな! 誰がてめぇのなんざ!」
「うるせー黙れクソチビ! てめェにおれの服は着こなせねェだろうが、馬子にも衣装だ。ナミさんのご要望とあらばおれはこの身に纏う衣でさえ差し出す覚悟なんだよオルァ!」
「てめぇのポシリーなんざ知るかーー!!」
だが、首根っこを掴まれれば、体格と力の差でアオイがサンジに敵うはずもなく、アオイは男部屋へと連行されたのだった。
*
「へぇ、これが男部屋……なんつーか、意外とまともだな」
先ほどまでの剣幕は何処へやら、アオイは初めて足を踏み入れた男部屋を興味深そうにキョロキョロと見遣る。サンジはロッカーから服をバサバサと出しながら、ちらりと視線だけをアオイに向けた。
「当たり前だ。おれがここで生活をするからには清潔であることを全員に徹底させてる」
「なるほど」
だが、サンジにしてはこの部屋は男臭すぎるとアオイは思った。もう少し華やかで洒落た方が彼らしい。
「なんていうか、お前には似合わないな。無骨な部屋だ」
「……それって褒め言葉か?」
「え? 褒めてるっつーか、思ったことを言ったんだけど」
きょとんと答えれば、サンジは複雑そうな顔をしてタバコの煙をくゆらせると、ふいとロッカーに視線を戻した。
「……とにかく、シャツとジャケット貸してやるよ。お前寒がりだし」
「どうも」
サンジが服を探すあいだ、アオイはここぞとばかりに男部屋の見物を始める。まぁ、気を遣わなくたって自分は男ということになっているのだから、いつでもここへは入れるのだろうが――
(なんとなく、勇気出ないな)
それは女ゆえの、どこかにある警戒心なのかもしれなかった。
ふと壁にある手配書が目につき、そういえばこれのせいでこの船に乗ることになったんだよな、とアオイの眉間に皺が寄る。だがそこに足らない顔があることに気付いて、思わず言葉を漏らした。
「お前のがないじゃん、コック」
「なんの話だ」
「あ、手配書だよ。まぁ俺のもないんだけど」
アオイがどこにあるかなと探せば、サンジは面白くないといった顔をして、フンと鼻を鳴らした。
「おれは別に、ンなとこに貼ってモチベーション上げなくとも充分強ェし、まァ既に要注意人物だから」
「あー、そう。で、どこに……」
適当に流してサンジに振り返れば、アオイは彼のロッカー内の底に紙が溜まっているのを目ざとく見つけ、服を物色するサンジの横から体を割り込ませると無理矢理その紙を引き抜いた。
「あ、てめェ!」
「えーと、お前懸賞金いくらだった、っけ……」
裏側になっていたそれを、ペラリとめくった瞬間――そこにあるふざけた似顔絵を見て、アオイは「ブーー!」と吹き出した。
「あーっはっは! て、てめぇコックこれ、傑作だな! そっくりじゃねーか!」
紙を持ったままゲラゲラと笑い転げるアオイにサンジは青筋を立て、手にした服をアオイに向かって思い切り投げつけた。
「黙れクソチビオカマ野郎! さっさとシャワー浴びて着替えやがれ!」
「ひー! くっ、はははは!」
「おい!!」
実はアオイは、以前船に乗る前にその手配書を目にしたことがあるのだが、その時は自分の顔がそこにあることに気を取られ、サンジのこの不細工な手配書にまで注意がいかなかったのだ。
アオイは立ち上がろうとするが、腹筋が痛すぎて呼吸も困難、プルプルと震えて涙目になり、その場から身動きが取れない。
「わ、わら、笑い死ぬ!」
「てめェにお似合いな死にざまだな!」
鬼の形相でそう叫ぶサンジの服装がいつの間にかシャツになっていることに気付いて、アオイは痙攣する腹筋をなんとか時間をかけて抑え込むと、投げ付けられた服に目線を落とした。ほんのりと温かみが伝わり、まだ人の気配を感じる。
「……あー、つーかこれ、もしかしてお前が今着てたやつか?」
再発しそうな笑いをこらえてアオイが尋ねれば、ぶすっとした顔のサンジは腕を組んでアオイを睨んだ。
「ジャケットほとんど洗濯中だからな。昨日のは使いモンにならねェし。……なんだ、不満か?」
「いや、全然」
「ならとっとと行け!」
しっしと左手でアオイを追い払う仕草をして右手ではネクタイを解き始めるサンジに、アオイはそれまでの笑いも忘れ、音がなるほど息を吸い込んだ。
「――な、何してんだてめぇ!」
「あ? ……何って、てめェにジャケットあげちまったし、このパーカーにゃシャツは合わねェだろ」
どうやら、服の物色にやたら時間がかかっていたのはこの後の自分の着替えまで含めていたためだったらしい。ネクタイを放ってシャツのボタンに手をかけるサンジに、アオイは顔を真っ赤にして乱暴に服を掴むと、慌てて男部屋を飛び出した。
「……? 変な奴だな」
バタンと閉じられた部屋の中、サンジは訝しげにそう呟いた。
(20170201)