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夜の森は静かで、木々を通る風は少しだけ肌寒かったが、アオイには気にならない程度だった。月明かりはアオイの孤独に寄り添うように天から慎ましく零れ落ち、心を優しく悼んでくれる。アオイは近場の石に腰かけて、すっと闇空を見上げた。
今日は宴。それは分かっていた。けれど、明日の我が身は分からない。少なくとも、この島を出たあとのサニー号の上で仲間と過ごす自分が、アオイには想像ができなかった。
――それなのに、今ここに近寄る気配が誰なのかは、どうしてだか先程から想像がついていて。
「こんなとこにいやがったか」
背中越しにかけられた声に驚くことなく、アオイはゆっくりと振り返った。
「コック」
「食い足りねェだろ、お前」
おら、と差し出されたトレイに乗ったご馳走にまずは驚き、そして思わず喉が鳴る。先ほどの肉の丸焼きではなくて、綺麗に薄くカットされたローストビーフは見事な蒸し焼き加減だった。サンジの言う通り、確かに腹はまだ満たされていなかったが、これを見たら腹の状態に関係なくまた新たに食欲が湧くに決まってる。
「ありがたくいただくよ」
トレイを受け取れば、サンジは安心したように表情を崩した。そのままアオイの横に当たり前のように腰をかけるから、アオイは当惑して彼のその様を見つめることしかできなかった。
(長居するつもりか)
料理人が、宴の席を外すべきではないと思うが。
それでも、サンジの口からゆっくりと吐き出される紫は、優しい闇の中では柔らかな印象を覚えて、アオイは自然と身体の緊張がほぐれていくような気がした。自分も思わず深呼吸がしたくなるのだ。
人々の騒めきの中にいるより、今こうして彼と2人、静かな夜にいる方が、ずっと楽だった。この森の、空の開放感が更に気持ちを落ち着かせる。隣に座るサンジが、いつものようなジャケットでなくパーカーを羽織っているというのも、アオイがリラックスする理由の一つかもしれなかった。
(まぁ、長居しようがこいつが自分の意思でここにいるんだから、俺の気にすることじゃないな)
そう、彼の隣が心地いいのを、弁解するように。
「俺が食べ足りてないのとか何で分かんの、お前」
「そりゃア……おれがコックだから、だな」
「ふぅん」
そう返されるのも想定内。アオイはそれ以上何も言わず、目の前に美しく並ぶ肉をフォークで巻き取ると、もくもくと口に運んだ。
「わ、うま!」
想像以上のまろやかな味わいに笑顔になって、アオイはすぐさまフォークを新たに突き刺す。
「おいおい、そいつの部位は貴重なんだ。味わって食えよ」
自身の咀嚼の速さに口を挟むサンジを、アオイはきょとんと見上げた。
「へぇ……それをわざわざ、俺に?」
「馬鹿言え。まずはレディたちにサーブしてきたに決まってんだろ。てめェのは余りだ、余り」
――とはいえ、貴重な部位を、わざわざ宴から外れた空気の読めない自分に持って来るなんて。
(優しいというか、放って置けないんだろうな)
海賊を名乗るには、彼は少々優しすぎる気もする。麦わらの一味はみな優しいけれど、彼のような紳士的な優しさだったり配慮だったたりということができる人物は見当たらない。そう考えて、そういえば舟の上でクルーに言われた言葉を思い出した。
「そいやぁさ」
「なんだよ」
「この服、みんなに褒められた」
場の穏やかさの雰囲気そのまま服の礼を言おうとしたアオイだったが、だけれどサンジ本人がナミに言われてこちらの意思を無視し押しつけてきた服だという事実を思い出し、素直に言おうとしていた礼を寸でのところで飲み込んだ。
だがサンジは礼を言わないアオイを気にするでなく、寧ろ褒められたという事実に機嫌が良くなったのだろう、嬉しそうに笑った。
「そりゃ、おれの服のがお前のよりセンスいいに決まってるだろ」
「うるせーな、余計なお世話だ」
「馬子にも衣装って言われずにすんだか?」
「眉毛引っこ抜くぞラブコック」
「おい、それ以上言ったら蹴り食らわすぞクソチビ」
全くお互い悪怯れず言い合えるのが、心地よい。アオイはおかしそうに笑ってから、ふと思いついたことを口にした。
「ふふ、なんだかんだ、俺ってお前に甘やかされてんのかな、やっぱ」
「…………は?」
返ってきたサンジの表情が急に硬いものに変わって、アオイは瞠目する。
(――まずいこと言ったか?)
軽口の範囲で終わらせるつもりだったのに。なぜだかそうは終わらせられない雰囲気になってしまった。
「おい、おれがいつお前を甘やかしたって?」
「べ、別に……ナミとかにそう言われただけだし」
そんな真剣にならなくても、と言外に出して、アオイはふくれっ面になってローストビーフを口に押し込む。それを見ていたサンジはすぐに元の表情になると、少しだけばつが悪そうに笑った。
「あぁ、ナミさんか。同じようなことおれも言われたんだよな」
「え?」
「てめェの面倒をよく見てるんだと、おれ」
「まぁ、あながち否定できねェか」と、先ほどから続く笑いは、彼自身に向けたもののように見えた。
「こうして飯をわざわざ持ってきてやってんだぞ。このおれが、野郎に」
「はぁ、まぁ、そうだな」
「何でかなァ。捨て猫拾ったっつー感じか?」
(捨て猫……)
確かに、拾われたという意味では正解だ。彼があの場所から、崩壊する塔から救出してくれなければ、今頃自分は海の藻屑だろう。
「今もじゃあ、俺、餌付けされてるわけ?」
ごくんと飲み込んでからサンジを見れば、彼はきょとんとしたあと――盛大に吹き出して笑った。
「餌付け! なるほどな、それだそれ!」
「え……」
「何でおれがてめェの世話を焼きたがるのか、自分で自分が不思議でならなかったんだが……捨て猫への餌付けだ! 納得いった!」
なぜだか上機嫌になって(さらに饒舌になって)合点とばかり手を叩くサンジを、アオイはあっけに取られて見つめた。そして沸々と湧き上がる複雑な気持ちに、自分でも理由が分からずイライラとして――
「――だれが捨て猫だよ。野良猫なら分かるけど」
「あ?」
「野良は野良らしく、群れずに生きるのがちょうどいいんだ」
アオイの言いたいことは伝わったようで、サンジはピタリと笑い声を止めた。
「……つまり、何だ? ハッキリ言えよ」
急激に冷めた、張り詰めた声。落差の激しい奴だ、とどこか遠くで思う自分がいて、アオイはそんな冷静な自分に笑ってしまう。でも、ビクビクしている自分がいるのも、同時に感じていた。
「みんなには迷惑かけた」
「ンなこと聞いてねェ」
「うん、だからつまり――俺、船降りるわ」
予め用意していたセリフだから、あっさりと言えると思ったのに。真剣な瞳を前にしたら、思わず一拍置いてしまった。
――真剣どころか、その握り拳には、怒りが滲んで見える、が。
「……降りるって? は、てめェが勝手に決めんのか。ルフィは何て言った?」
「……まだ、話してねーけど」
「話さねェことばっかだな、てめェは」
ざっくりと斬られ、返す言葉もないアオイは顔を逸らす。それがますます気に食わないのだろう、サンジは盛大な舌打ちをしてから、苛立ったように荒く煙を吐いた。それは、透明な夜にすぐ霧散する。
「てめェの事情は確かに、話したくないっつーのも理解はできる。七武海との繋がり、例のポーネグリフとか」
「……そうだろ? 話が早くて助かるよ、コック」
「青い光、とかな」
低い声。差し込まれた急な言葉。まるで試すように言われて、ドクンと心臓が主張した。
それは、ロビンにポーネグリフの件をバラされた時と同じくらいの、しかし予想してなかった分随分と衝撃を受けて――アオイは言葉に詰まってしまった。
――こんなにも、風の音は騒めいていただろうか。
アオイのその様子も想定内だったのだろう、サンジはピンと吸い殻を弾いて飛ばすと、ジャリと踏みつけた。
「――ありゃ何だ? また話せないことか?」
「見た、のか」
「だったら、どうする?」
「忘れてくれ!」
この一味のためなら、いいと思った。あそこには他の人間たちがいるのも分かっていた。それでも助けになりたかったのだから、後悔はしていない。――けれど。
懇願するように、アオイはサンジに向き直る。
「見なかったことに、してほしい」
サンジは神妙な顔をした。
「つってもな。目撃者はおれ一人じゃないんだが」
「だったら尚更だ! 俺は誰か人と一緒にいちゃいけない!」
「――っどこまで独りよがりなんだ、てめェは!」
いきなり掴まれた胸倉が苦しくて、アオイは呼吸を遮られた。反動で手に持っていた皿が揺れて――ローストビーフが一枚、地面に落ちた。
「どうせてめェのことだ、仲間を助けたくて、その秘密もバレるの覚悟でアレをやったんだろ!? それが一夜明けたらいきなり距離置きやがって! そんなちぐはぐなことされて、おれたちが何も思わず「ハイそうですか」って、送り出せるとでも思ってんのか?」
「何でだよ! 簡単だろ、俺を船から降ろすだけだぞ!」
「そんな軽い気持ちで一味に入れたわけじゃねェ!」
ザワと、木の枝が鳴る。草が木霊する。
「一味になるってのは、互いの命預かるってことだ。この海で旅してたお前になら、それくらい分かるだろうが。……そんな人に知られたくねェ事情があんなら、何でおれたちに着いてきたんだ、お前は」
「そ、れは……」
状況的に、と続けようとして、やめた。どれも他のせいにする言い訳にしかならなかった。それが、分かったから。
(着いてきてしまったのは、俺の甘えだ。船長の光だとか、この一味の温かさに、憧れがあったんだ)
利用してやるという、自分のための免罪符、目的すら霞むほどに――
だって、目的のためを思えば、あのチカラは人前で使うべきでは決してなかったのに。
「自分からボロ出しておいて、自分の都合で船降りるとか言ってんじゃねェぞ。そんな軽いノリでいられたら――」
そこまで言いかけてサンジはハッとすると、掴んでいた胸倉からパッと手を離した。掴まれた箇所は、サンジに借りたピンクのシャツは、シワが出来てしまった。それが、無性に悲しい。
(迷惑、か)
だからこそ何で、引き止める!
「……悪ィ、そういうこと言いに来たんじゃ」
「意見が一致したな。そうだ、迷惑だから俺が降りればいいって、さっきから言ってるだろ! それがお互いのためだって!」
「アオイ……」
カッとした。また、名前だ。ここぞという時にばかり呼んでくるサンジに、アオイは我慢ならなかった。
「良かったな、拾いものの世話もこれで最後だ! 俺も一人になれて清々する!」
――よほど、堪えたらしい。
サンジは顔いっぱい歪めると、何かを言いかけて、口を閉じた。それから髪の毛をくしゃくしゃと掻き混ぜて、沈黙する。それが、その静けさが。何も言えずにかたまってしまった彼の愁眉が。ズキズキと胸に響いて。
(なんだ、)
この、痛みは。
「……てめェがそう、思ってんなら、おれから言うことは何もねェ」
ポツリと、だけれど吐き捨てるように言って、サンジは荒々しく立ち上がった。
「邪魔したな」
何か感情を、捻じ伏せるかのような低い、色のない声だった。そんな声を初めてサンジからかけられて、そして何か言う隙間もなくその背に去られて、アオイは呆然とする。
森の奥に、屋敷に去っていく金色。眩しくって、ツンとする。
「……俺だって、こんなこと、言いたかったわけじゃ」
震える声に、応えはいらなかった。喉の奥が潰れるような、この息苦しさは何だろう。何で、目頭が熱くなるんだろう。
彼なりに、抱え込む自分の話を引き出そうとしてくれていたんじゃないか。彼なりに、引き止めてくれたんじゃないか。なぜ、言い合うその時に気付けないのか。なぜ、わざと傷つくことを言ってしまったんだろう。
「ごめん……」
彼が優しいことくらい、甘やかされている自分なら、知っているはずなのに。
(20170505)