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 手元に残ったローストビーフを見つめる。どこまでも柔らかくて舌に馴染んで、とろけるように美味しい。けれど、アオイは先ほどのサンジとのやりとりを受けて、その続きを食べる気を失いかけていた。
 あの言い合い。もはや切っ掛けも覚えていない。ただ最終的に、甘く緩い覚悟の自分を無理矢理曝け出されたのは確かで、それは一味にとって正しい行いだった。
 だからこそ――借りたジャケットから仄かに香るタバコの匂いだとか、長すぎる袖だとか、肩の余った部分だとかが、余計に不相応に感じる。

(――おかしいだろ、俺)

 どんな資格があって、これを着てるんだろう。こんな料理を貰ってるんだろう。
 自嘲をそのまま空気に滑らせた時、また屋敷の方から感じた気配にアオイはハッと身構えた。
 だが、彼ではなかった。それにどこかホッとしつつも、少しだけ期待外れに感じて――そうして沈鬱なアオイの元に近寄ってきたのは、意外な二つの影。

「おい、大丈夫かアオイ!」

 なぜか心配そうにこちらを覗き込んでくる彼らに、アオイはぽかんとした顔を向ける。

「――ウソップ、それに、変態」
「なんて顔してやがる。腑抜けだぜ、お前」

 フランキーに呆れて言われ、アオイは慌てて顔を引き締めた。ポーカーフェイスは、得意のはずなのだ。

「別に、何でもねーよ。……何だよウソップ、その心配っぷりは」
「いや、さっきそこですれ違ったサンジがすげェ顔してたからよ。お前となんかあったんじゃねェかと」

(なんだ、凄ぇ顔って)

 確実に自分との諍いのためだが、アオイは素知らぬふりをして肩を竦めた。

「知らね。何でそこに俺が出てくる?」
「あのなァアオイ、サンジがそのローストビーフ持って外に出たの、おればっちり見てるんだからな」

 それを後出しで言ってくる辺りが、頭脳派のウソップらしい。アオイは恨みがましくジッとウソップを見たあと、諦めたように嘆息して、そのまま視線を地面に落とした。

「……ちょっとしたケンカだ。気にすんなって」
「ケンカなァ、あのサンジがかァ?」

 「もともと熱血漢なところはあるが」と呟いて、フランキーはその逞しい顎に手を添えて首を傾げた。

「あんな顔するサンジは、あんま記憶ねェな」
「へぇ? お前らだってよく怒らせてるだろ」

 フランキーから視線を外し、わざと煽るようにアオイが言えば、ウソップは毅然と言い放った。

「サンジは、そういうのを引きずる男じゃねェよ」

 ぴしゃりと、強く念を押すように言われ、アオイは押し黙る。確かにその通りなのだ。サンジは所謂兄貴肌というやつで、後腐れのない、気っ風の良い性格の持ち主だ。
 ――それが、今回は違うらしい。

「……まァ、二人の間に何あったか知らねェし口挟む気もねェが、あんまギスギスすんじゃねェぞ。拗れると面倒だからな」

 なだめる口ぶりで言うフランキーは、さすがは年の功と言うべきか、物事を収束させる術を持っている。アオイはそれに助かったと内心お礼を言って、「善処するよ」と笑って答えるに留まった。話題を切り替えるように笑みを浮かべてから二人を見る。

「――ところで、現場作業員の二人が揃いも揃って俺のとこ来るなんざ、何かあったのか?」

 このメンツと言えば、物造りに違いないのだが。

「あぁ、そうだ。サンジに気ィ取られて本題忘れるところだった! アオイお前、おれたちと共同制作しないか」
「共同? 何の」
「ルンバー海賊団の墓さ!」
「……ルンバー海賊団?」

 やたら浮かれた名前の、聞き馴染みのない一味にアオイが小首を傾げると、「あぁ、そいやお前ェその場にいなかったな」とフランキーが後を継ぐ。

「あのガイコツ――ブルックが前にいた海賊団のことだ」
「ガイコツが……」

 確か、サニー号で話した時は。悠久にも感じる時を、一人霧の中彷徨っていたと。そしてナミ奪還の前に、ルフィたちも会ったことがあるクジラが以前ブルックの仲間だったと、そういう会話があったことは記憶している。――詳しいことは、意図してか無意識か、あまり脳内に入らなかったけれど。
 だがハッキリしているのは、ブルックの麦わらの一味への加入が決定づけられたということだ。

「なるほどな。ガイコツは晴れて麦わらの一味に仲間入りか。めでたいじゃねーか」

 これは、本心だ。ずっと一人でいたという彼に、アオイは以前切ない同情を寄せた。そして紳士的な彼の立ち居振る舞いに、穏やかな気持ちを貰った。それだからこそ、ウソップたちからの申し入れを断る理由なんて、何一つない。

「OK、俺も参加させてもらう。海賊団の墓だからな、少しくらい豪胆な方がいいもんな。オニキスなんか使ってやろうか」

 アオイの色よい返事に気を良くしたウソップはパチンと手を叩くと、「それじゃあアオイ、それ早く食えよ。すぐに取り掛かるからな」と意気込む。言われて、アオイははたと皿に視線を戻した。ローストビーフから漂う、何かしらのオーラ。一気に居心地が悪くなった。

「なんだ、食わねェのか? 腹痛か?」

 無遠慮にフランキーに言われ、軽く睨む。

「別に、そうじゃねぇけど」

 まごまごとするアオイを見守って、ウソップはゆっくりと口を開いた。

「――そのローストビーフな、おれたちには一枚たりともくれなかったんだぜ」
「え? あぁ……コックの話?」

 それには答えず、ウソップは苦笑する。

「女たちにはいつも通り率先して提供してたけど、まさか残りをお前に持ってくとは思わなかった。船長のルフィが飛びついても、追っ払ってな……やっぱお前、サンジに好かれてるよ」
「――どうかな」

 サンジの言葉を借りれば、それは好いてるわけではない、とアオイは思う。――ただ、その言葉がなぜ胸に痛いのか、アオイは自分でも分からなかった。たまらず零した。

「捨て猫への餌付けが楽しかったんだってさ」
「ん? サンジがお前のこと、そう言ったのか?」
「……あぁ」

 肯定するのもなんだか気に食わなくてぶっきらぼうに返せば、ウソップは堪り兼ねるといった具合に吹き出した。

「ぷー! な、なるほど! アオイお前、それ言われて拗ねてんのか!」
「……拗ねる? 俺が?」

(どうしてこれが“拗ねる”になる!?)

 理解できないのに何故か恥ずかしくなったアオイに追い打ちをかけるように、今度はフランキーが闊達に笑った。

「ハハァ、いつもすましてる割には可愛いとこあんじゃねェか、お前」
「――っは!?」
「それじゃあサンジの方は、拾った猫に噛み付かれて悄気てるってわけか。なんだ、心配して損したぜ」
「おい二人とも、勝手なこと言うな! 拗ねてなんかねーっての!」

 ムキになって噛み付けば、遠慮のないフランキーの手で肩をバシバシと叩かれて、アオイの顔が一気に歪む。

「痛ぇ!」
「おら、お前ェのためにサンジが作ったんだろ、乾かないうちにさっさと食っちまえ」
「そうそう。食材をダメにすると、サンジが泣くぜ?」
「サンジサンジって何なんだよてめーら! くそ、分かってるよ食うよ! 料理に罪はねーからな!」

 ぐるぐるとフォークで一気に巻き取り、常のアオイらしくなく豪快に口に突っ込むその姿に、傍で見守っていた二人は、また笑った。

「その意気だ。うじうじしてても仕方ねェ。食って飲んで、とりあえず企画立ち上げ会議だ」
「心配すんな、アオイ。サンジなら大丈夫だ。確かにお前を拾った責任で面倒見てるとこもあるだろうが――宴の最中に、好きでもない奴に特別な料理振る舞うほど、あいつは暇じゃねェよ」

 ウソップにトンと小突かれた背中が、じんわり温かく感じる。アオイはそう感じる自分に困ったように笑ってから、押された背中のまま、残りの肉を平らげた。



「この線じゃここに折れ目入っちまうだろ、おれァこっちのがいいなァ」
「それだとここのRが――」

 朝とは言え、船の中にあるウソップ工場兼フランキーの武器開発室兼アオイのジュエリーアトリエに、太陽から溢れる光は届かない。昨夜から引き続いて設計図と睨めっこしながら意見を交わすウソップとフランキーを横目で見やってから、アオイも一人真っ白な紙をデスクに広げ、灯すランプの火を調節した。
 墓の大まかなデザインはウソップが提案した。それに製作者のフランキーが意見を述べたり、アオイも口を挟んだりしつつ、昨夜のうちに大体の形は決まった。あとは角に丸みを持たせるかどうかとか、折れ目をどうするか、設計の最終段階に入っている。
 アオイは更に墓の裏側のデザインを任されていた。裏に何もなしじゃ寂しいだろう、ということだ。普通ならルンバー海賊団に所属していたメンバーの名前を彫るところだが。

(しっくりこないな)
 
 息をついて、鉛筆をくるりと回す。なかなか良い案が思い浮かばず、アオイは気分転換も兼ねて墓の設置予定の場所まで散歩しようと、席を立った。

 ――そこで木漏れ日を浴びて立つアフロを発見して、アオイは過去怖気付いていたことなど既に忘れたように、穏やかに彼に近寄った。アオイの足音に気付いて振り向く髑髏の空洞だって、今となっては何も怖くない。

「よ、いい天気だな」
「おや、貴方は――」
「アオイでいいよ、ガイコツ」
「あぁ、そうでしたそうでした! よろしくお願いしますね、アオイさん」

 よろしくには答えず、アオイは何でもない風に口を開いた。

「仲間になったんだってな」
「ヨホホホ、そうなんですよ。私のような者が皆さんのお役に立てるか、分かりませんが――身を粉にして働きたいと思います」

 「と言っても私、身を削ればほんとに粉出るんですけどー!」というもはや定期の流れの一人ギャグを見守り、アオイは静かに笑う。

(陽気な奴。ルンバーなんて名前、最初は変だと思ってたけど)

 彼以外のクルーの顔も名前も知らない。けれどきっと、全員に似合う海賊団に違いなかった。どこまでも明るく無邪気で、温かな。

(ビンクスの酒が、よく似合う)

 ――そこまで思考して、アオイはピンときた。ひらめきの瞬間というのは、予期せぬ時に訪れる。

「――ガイコツ。ちょっと頼みたいことがあんだけどさ」
「ヨホホホ! 早速お役に立てるなら、なんなりと!」



 午後の微睡みの中、製作作業に取り掛かる3人の元にやって来たのは、アオイの心の癒しであるチョッパーだ。

「アオイー、捗ってるか?」
「チョッパー。まぁ、そうだな。ボチボチってとこかな」

 一人手が空いているアオイが額を撫でてやれば、チョッパーのどこか心配げな瞳が自分をとらえていて、アオイはどきりとした。

「そうか。朝からアオイ元気なかったから、体調悪いのかと思って」

 この丸っこいフワフワトナカイは、医者なだけあって周りをよく見ている。

「そうか? 朝なんて俺、いつもテンション低いぜ」
「うん、分かってるよ。でもなんか、今もいつも通りじゃない気がするんだ」

 言われ、アオイは口を噤む。
 結局サンジとは昨夜の一件を引きずるかたちになってしまい、朝から一言も喋っていない。彼の言い分は正しかったのに、感情をありのままぶつけてしまった自分が恥ずかしくて気まずくて、アオイは自分から声をかけられないでいた。それだからこそ、服装も元ある自分の予備の物に戻している(ナミに睨まれたが、作業で汚れるからと言えば納得してくれた)。――ただ分かっているのは、紳士の彼らしく、アオイのあの光についてサンジは誰にも他言していないということだ。
 アオイは慎重に作り笑いを浮かべて、チョッパーの額を再度、やんわりと撫でた。

「心配すんな。ちょっと昨日の酒引きずっちまってさ」
「おうチョッパー。アオイはな、今サンジと犬も食わぬ何とやら、だ」
「変態がおっさん臭さ増したらマジで害だぞ、こら」

 必死に絞り出した弁明をぶち破る勝手気儘さにアオイがジロリと凄んでも、フランキーには効かないらしい。軽快な笑みを浮かべてから、彼はそのまま作業に戻った。その後頭部をぼんやり眺めて、チョッパーが可愛らしく小首を傾ける。

「犬も食わぬ……って、何だ?」
「あぁ気にすんなチョッパー。大した意味じゃねー」
「そっか。でも、サンジと何かあったんだな」

 円らな瞳。アオイは苦笑してそれを受け止めると、手の平で転がるオニキスに視線を落とした。
 ――チョッパーには、あまり嘘は言いたくない。

「ほんとのこと言うと、すこーしだけ、喧嘩した」
「え! アオイとサンジが?」
「うん」
「えええ、珍しいことがあるんだなァ……って、そうじゃねェ! それで、アオイは悲しんでるのか」
「悲しい?」

 単刀直入に言われると、それが正しい識別なのか分からなくて困惑する。アオイは出来上がっていく墓を眺めるフリをして、呟いた。

「どうしたらいいか戸惑ってるだけさ」
「仲直りしたい、のか?
「……そうだな、悪いのは俺だから」

 船を去るのを思えば、サンジ含め皆と円満に別れるべきか、それとも後腐れなくするためにもサンジやゾロなどとは不仲のままでいるべきか――アオイは図りかねていた。
 それに恐らく、この墓作りが終われば、待ち受けているのは尋問だろう。麦わらの一味には迷惑をかけたのだ。たくさんのワケを話さなければならない。そうなれば、クルーとは結果険悪になるかもしれない。
 八方塞がりとは、このことだ。

「さて、どうすっかな。流れに身を任せるしかないかな」
「ダメだ、アオイ」

 常にない硬質な声色を出すチョッパーに驚いて、アオイはまじまじとトナカイの帽子を見つめる。

「アオイ、そうやって自分を笑って誤魔化すのはダメだ。悪いと思ったらごめんって謝らなきゃ。嬉しかったらありがとうって言わなきゃダメだ! じゃないと……きっと、お前が後悔する」

 円らな瞳だと思っていたのに、そこに映る色は気高く透き通る心。見つめられたアオイは暫し言葉を失って――グズグズと刺さる心の痛みを、ため息に混ぜて吐き出した。今度は、上手く笑えなかった。

「……そうだな。後悔は、これ以上増やしたくない」
「うん。だったら、素直になった方がいいんだぞ!」

 素直。
 それはとても怖いけど、素直になっていいんだと言ってくれるのであれば。アオイは軽くなる肩を感じて、曖昧に笑った。

「あぁ……ありがとな、チョッパー」
「エッエッエ! お礼言われても嬉しくねェんだからな!」
「ふは、素直ってなんだっけな」

 謝ろう。この後の話し合いがどうなろうと、それだけは心に決めた。

(20170508)
Si*Si*Ciao