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この収まりの悪い心臓の動きに、アオイは覚えがあった。
(体調崩した時、なかなかダイニングに入れなかった――あの時と似てる)
だが、状況は違っていた。あの時は彼の優しさに慣れていなくて、どう振舞うべきか戸惑っていた。今は――悪いことをしたという、罪悪感。少しだけ彼のことを知り始めたからこその気まずさ。サンジが優しいと知ったからこそ、もし許してもらえなかったら――
(別に、悲しいわけじゃない)
それならそれで、後腐れなく船を降りられるからいいか、と思うのに。
(なのに、何を躊躇してるんだ、俺は)
アオイはダイニング扉に手を掛けてはいたが、そこに力を込めることができずにいた。わざわざ「墓製作陣への差し入れを受け取りに行く」という理由づけまでして勇んで来たというのに、このザマだ。
謝罪一つできないとは。そんな人間だったつもりは、ないのだが――
もう何度目かの息を吸い込んだ時、ふいに向こう側の気配が揺れた。慌てて俯いていた顔を上げたその時――ガチャリと開いた扉から潔く現れたパイライトの金に、アオイは息を呑んだ。
「――コック……」
ポロリと溢れた一言のあと、アオイは続ける言葉を思いつく余裕もなく呆然とする。金髪の主は――サンジはそれを感情の読めない瞳で一瞥してから、ゆっくりと細い紫煙を吐き出して言った。
「――いつまでそこにいるつもりだ? 中入るなら入れ」
開いた扉に気怠げに背中を預け、中へ促すように道を開ける。アオイは彼のその予想外の振る舞いに目を見張って、思わず上擦った声を抑えられない。
「え……でも、」
恐る恐る見上げる。サンジは少しだけ不満そうにチラリと視線を寄越してから、新しいタバコに火をつけ、切り出した。
「用があるんだろ、おれに」
煙は急かすように、アオイを囲んで立ち上る。
「まァ差し入れだけいるってんなら、今ここで渡しておしまいにするけどな」
クイと顎で示された先を見る。ダイニングテーブルの上に既に3人分のカップと、つまみやすいサブレの乗った皿が用意されているのを目にして、アオイの心臓は痛いくらいに膨らんだ。
(さすが、だなぁ)
気の利き方。優しさ。――そして、こうして出て来てくれる、その懐の大きさに。
アオイは視線を床に落として――震えそうになる眉を出来るだけ引き結ぶと、同じくらい心臓を振り絞った。
(俺ばかり、甘えてちゃダメだ)
「お前に話したいことがあるんだ、コック」
決意を持って紡いだ語尾は、琴の弦に風が当たったかのように、微かに揺れてしまったが。
サンジの息を呑む気配が、した気がした。
「紅茶でいいか」
一拍置いて呟かれたその申し出にハッとして顔を上げれば、少し複雑そうに眉を寄せるサンジが、そこにいた。
(不安なのは、俺だけじゃないんだ)
直感だった。
「――うん、頼むよ」
アオイがぎこちなく笑うと、サンジはホッとしたのか、寄せていた眉を解す。だけれど急に表情を引き締めると、顔を見せんと言わんばかりにさっと背を向けた。
「あー、アッサムそろそろ終わらせてェんだが、どうだ?」
「構わないよ。お前の淹れるのは、何でも美味いし」
サンジの、ダイニングキッチンに向かう長い足がぴたりと止まる。後ろにいるアオイも必然的に立ち止まるしかなくて、不思議に彼の後頭部を見上げた。
「……そりゃア、良かった」
こちらを振り向かないままのサンジのぶっきらぼうな口調は、それでも怒っているようには感じ取れない。そのことにアオイはただ、救われた。根性なしと言われても、これから向き合う相手が柔らかであるなら――チョッパーの助言通り、ちゃんと素直になれる気がした。
そのまま何事もなかったかのようにスタスタと歩みを進め、サンジは背中を丸めて紅茶の缶を取り出す。それを眺めながらアオイは席に着くと、急く気持ちを抑えられず身を乗り出した。
「あ、あのさコック――」
「まァ待て」
背を向けながらもアオイの言葉を制すサンジは、流れるような身のこなしでやかんを火にかけた。
「茶の席での会話は、導入部はたわいなく、つーのがマナーってもンだ」
「たわいのない……」
「ほら、なんか振ってみろ」
振り向き、キッチンカウンターにポットとカップを手際よく並べる彼の視線は、一向にこちらを向くことはない。アオイは唐突に言われたことにギクシャクとして頭が回らなかった。
「えーと。……本日は、お日柄も良く?」
「てめェは校長先生か! 会話センスゼロだな!」
「な! 急に無茶振りするお前にだって問題あるだろ! それに俺は、真剣な話をしに来たんだ!」
顔を赤くして叫べば、サンジの視線とようやくかち合う。ジッと見つめられ、アオイはまた緊張で胃が喉から出てきそうだった。
「真剣な話、な。いいぜ、言ってみろよ。聞いてやる」
フーーと態とらしく煙を天井に向かってたなびかせ、サンジはちらりと横目でアオイを見る。ぐっと息を飲み込んでから、アオイは重々しく口を開いた。
「……ごめん」
薄い水面に垂らすように、小さく零した言葉。――微かでもいい。広がって、届いてくれれば、と。
だがサンジは、俯くアオイを真剣に見つめてから、ふいと視線を外した。
「……それ、何に対してだ?」
「え?」
「何に対して謝ってンだ、お前ェは」
改めて問われ、アオイは狼狽した。
「コックが……怒ってると思って」
「おれが、怒ってる? てめェに?」
「ち、違うのかよ」
「あー……」
サンジが言葉を濁したところで、やかんがお湯の沸騰を知らせる。珍しくそれを忘れていたのだろう、サンジは慌ててコンロの火を切ると、湯気の出るやかんを手にしてから、慣れ親しんだ動作でゆっくりとポットに傾けた。
「怒ってる、か。まァ腹は立ったが。――ちなみにお前、何でおれが腹立ったか、分かるか?」
「え? だって……」
アオイは昨夜を思い返して、何がサンジを怒らせたか考えてみても、自分が放った酷い言葉しか思い出せなかった。
(それ以外に、あるはずないだろ)
「俺がお前の心配りみたいなのを……無下にしちまったから。昨日最後、酷いこと言ったし」
「なるほど」
「違うのか?」
「それについては、怒りっつー意味なら半分正解」
「ほら、少しミルク入れろよ」という言葉とともに差し出されたアッサムティーを、アオイは軽く頭を下げて受け取った。だがそれよりも、彼の回答で頭は混乱中だ。
「半分? 何で? 俺、酷いこと言ったのに」
「おれもおあいこだからな。その前にお前に、本心でないこと言ったから」
そうして気まずげに、サンジは目を伏せた。
「だから、おれも悪かったよ。お前が船にいること、それを迷惑だなんて思ってねェし、その気持ちが前提だ」
まさか逆に謝罪されるとは夢にも思っていなかったアオイは、これまで以上に居心地が悪くなった。身体のどこかがムズムズする感覚がどうにも耐えられず、何も答えることができなくて――紛らわすように、赤褐色の紅茶にミルクをたっぷり注いだ。どこまで注げばいいか、区切りが分からなくなるくらいだ――
「それに、さっき外であんな顔して待ってるお前の顔見ちまったら。正直、怒る気も失せたっつーか」
「……なんだよ、それ」
苦々しい思いで口に含んだそれは、いつもよりずっと甘かった。
「――おい、ところでおれが腹立てた残りの理由、分かんねェのか」
そっちのが重要だぞ、とサンジは紅茶を啜りながら呆れてこちらを見ていて、アオイははてと首をかしげた。
「残りって……俺の暴言のことじゃないのか?」
「アホ。“それについてなら半分”って言っただろうが」
「あぁ、そういやそうか」
ちろり、と上目で見ても、サンジは自分で考えろとばかりに敢えて視線を合わせくれない。明後日の方を見て、紅茶をいただいているだけだ。
(コックが俺に、腹立った理由)
正直、あの時は売り言葉に買い言葉だった。何がきっかけで、というのをアオイは失念していた。
(俺自身がイライラしたタイミングは、分かるのに)
つまりは、猫で餌付けだと言われた際だが――
そういえばサンジは、いつだったのか。彼が怒りに握った拳のことは、確かに覚えているのに。
「はー、たぶんお前って、あんま人と関わってこなかったんだな」
アオイの反応に痺れを切らしたサンジのキツい一言に、アオイは瞬時に耳が熱を孕むのを感じた。
「……っこんな、深い付き合いはしてこなかったんだ」
言い訳がましく言う自分が、また更に恥ずかしい。
「深い付き合い、か」
トン、とカップを置いて、サンジは止まり木に腰を下ろすと、真っ直ぐアオイの瞳を見据えて静かに言った。
「そう思うなら、船を降りるなんて言うな」
(――そこ、なのか?)
確かに、そうだった。その話から、雲行きが怪しくなった。
けれど、「船を降りるな」とはどういうことだろう? あの時の彼の怒りは、船長に相談もせず独断で事を決めるところだとか、周りに色々なことを隠したままでいる自分に対して、激怒していたはずだ。
落ち着いて諭された今、ただ「降りるな」とは何とも腑に落ちなくて、アオイはきょとんとした表情でサンジを見つめた。
「お前、俺に降りて欲しくないのか?」
勢いよく紅茶を吹き出すサンジに、アオイはますます目を丸くする。
「どうしたんだ、コック」
「おまっ……、滅多な事言ってんじゃねェぞコラァ!」
「何が滅多なことだよ。お前は何に怒ってるんだ。俺が降りることに対してなのか? 勝手に色々、決めちまってることにか?」
アオイが今まで築いてきた人間関係といえば、鷹の目との関わりは別としてどれも薄っぺらく、淡白なものだった。(シャンクス達のように、少しばかり惹かれる海賊はいたが)
それに鷹の目という男は、密なコミュニケーションを取ろうとするタイプではない。故に、お互いが自由に振舞っていたように思える。
だからこそ、深い関わり合いでの人の感情の揺れ動きには慣れていないという自覚は、ある。
アオイの言葉にサンジは顔を赤らめて口をパクパクとさせると、ガックリと顔を覆った。
「……邪気のない目で、なんつーことを聞くんだよ……」
アオイの耳に聞こえるか聞こえないか、すれすれの音量で呟いてから、サンジはヤケクソ気味に顔を上げると、アオイをキッと睨みつけた。
「つーかそれをてめェで考えろっつってんだ!」
「なら、さっきの話だと降りることにお前は怒ってるってことか」
「……っそう、断言されるとなァ……」
「参ったな。どう、謝るべきか」
未だ一人しどろもどろなサンジを軽く無視して、アオイは何もない天井を見つめた。
「お前には色々見られちまってるし、他の色々な素材からなんとなく勘付いてくれてるとは思うが――俺の周辺は、まぁ色々とワケありだ」
「だろうな」
ヤケクソがまだ尾を引いてるらしい。タバコに乱暴に火をつけると、サンジは眉を顰めながらそれでも相槌を打つのを忘れない。
(ほんと、バカみたいに優しいヤツ)
苦笑して、アオイは紡ぐ。
「一味のためを思えば、今のうちだと俺は思う」
「だから、船を降りるってか」
「結論を言えば、そう。だから、お前のその怒りに俺は、どう謝罪したらいいんだ」
「あのなァ……おれたちが、それを支えられないとでも?」
「随分と見くびってくれるじゃねェか」と凄む声に目を向ければ、睨みながら言われて。アオイは誤魔化すように再び天井へ目を背けると、ポツリと呟いた。
「……なぁ、海賊ってさ。仲間になるんなら、どこまで自分の過去を話すべきだと思う? むしろ全部話さないと、仲間と呼ぶべきじゃない、か?」
遠くに視線を置くアオイをサンジは黙って見つめると、それまで荒ぶっていた挙動を抑え、慎重に灰を落とした。
「……どうしてそれを、おれに聞く?」
声は、常より少しばかり低い。
「深い意味はないよ。今ここにお前がいてくれるから」
アオイが正直に言えば、サンジは少しばつが悪そうな顔をすると、切り替えるように穏やかな声を発した。
「まァな……何も生まれてから今までのこと全部話せってのは、ないだろ。そもそも海賊なんざ荒くれ者の集まりだ。それぞれ曰く付きだったり、人には話せない過去を持ってて当たり前。おれたちだって、ルフィの親父があのドラゴンっつーことを知ったの、お前と会った時くらいだったわけだからな」
「あぁ、そうだったな」
あの時のガープの話を思い出す。色々なことが暴露されていたが、きっとルフィにとってそれは大したことではなかった。アオイは顔を歪めると、一気にまくしたてた。
「けど、俺は違う。俺の生には明確な理由があって、それは大きな目的のためだ。それに他人を巻き込むつもりは、毛頭ない」
「――それを、おれだけじゃなくあいつらにも話せばいい」
そう切り返され、アオイはようやく声の主に焦点を当てる。サンジは少し迷いのある表情をして、けれど懸命にアオイを見ていた。
「ここのクルーを見てみろ。みんなそれぞれ、普通ではいられねェ集まりだ」
「……確かに、ニコ・ロビンなんかは筆頭だな」
「そう。だから、今更お前一人分の“ワケ”を乗せるくらいじゃ、この船は沈まねェよ」
強い言葉に、アオイは目を丸くすると、それから耐えるようにきゅっと閉じた。片隅でナミの言葉を思い出しながら。
(俺如きの勝手さなんて、屁でもないんだっけか)
それでも、聞かずにはいられなかった。
「……もし沈んだら、どうする?」
試すように呟く。ゆっくり開いた視界いっぱいに――不敵に笑う、サンジがいた。
「沈む前に救助してやるよ、安心しろ」
「嵐に巻き込まれてもな」と付け足して、サンジは残りの紅茶を飲み干した。
眩しくて目に染みるのは、彼の髪の色のせいだろうか。
痛くなる胸を抑えて、アオイは荒れだす息を整えようと懸命だった。
「巻き込まれてくれるってか。俺の、事情に」
「言っとくが、てめェだけじゃねェからな。まずはレディーたち、それからクソヤロー共だ」
アオイは知らず緩む口元を抑えることができず、どこか擽ったい気持ちでサンジに微笑んだ。
受け取りはしない。それは、アオイの生きる矜恃である故。けれど、ここまでの言葉を貰ったのだ。悔いはなかった。
(素直になれそうだよ、チョッパー)
「……ありがとう、コック」
噛み締めるように言えば、サンジの豆鉄砲を食らったような顔がそこにあって、アオイはおかしくて笑った。
「お前に礼言われたの、初めてな気がする」
「ふふ、そうかもな」
結論は出ない。巻き込む以前の問題で、そもそも仮宿と決めている。利用するために、手を取った。そして――夢想するものが、自分のは異質すぎる。最終的に彼らとは交われないと、分かってはいる。
そうごちゃごちゃする中でただ一つ確かなのは。この優しい人には、人たちには。できるだけ正直でありたい――それだけだった。
「俺、みんなに事情を話すよ。全部は話せなくても、せめて、みんなが納得いくように」
「そうか。……頑張れよ。そこで出た結論なら、おれがどうこう言うことじゃないからな」
仄かに笑うサンジにアオイは静かに顔を綻ばせると、冷めてきた紅茶を一気に口に含んで、席を立った。
「美味かったよ、コック」
悔いはないのだ。
(20170612)