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 その音色は、少し前の賑やかな夜に耳にしたものと同じだった。
 アオイは引き寄せられるように音の糸を辿ると、完成した墓の向こうに一つの影を見つけた。降り注ぐ朝の賛美歌の光の中、ゆったりと地面に座り込みながら、ヴァイオリン奏でる彼。それは何かを置いていく覚悟のような、切ない別れのような、優しく掻き抱く全てのような――ともかく、自然とアオイの足をそこに留まらせるのに十分な光景だった。
 アオイの意識が行き場を失った頃、ふ、と音が余韻を散らして消える。

「アオイさん」

 振り返るブルックにアオイはハッとすると、慌てて片手を上げた。――少し、わざとらしかったかもしれない。

「はよ、骸骨――いや、ブルック」
「おはようございます。よくお休みのようでしたね」

 とっくにフランキー達への礼をし終えているブルックに言われれば、アオイは少々ばつが悪くなって、頭を掻いた。

「んー、そうだな。緊張の糸が切れたんだろ。久々にぐっすりだったぜ。……おかげで、朝飯食いっぱぐれそうになった」
「ヨホホ! サンジさんの朝ご飯を逃すなんて、もったいなくてできないですね!」
「ほんとに」

 晴れやかな今日にお似合いのエッグベネディクトが朝食だと知った時、アオイはギリギリ目が覚めて良かったと本気で胸を撫で下ろした。もしあと少しでも寝坊していたら、あの豪華な朝食は今頃船長の胃の中のはずだ。

「モリアとの戦い、お疲れさまでした」
「お前も」

 ブルックの隣まで足を運び、ジャリと音を鳴らして座り込む。そんなアオイを、愛嬌のある二つの空洞が見つめた。

「疲れてる中、こんな素敵なお墓を作っていただいて……嬉しいです。アオイさん、ありがとう」
「いいって。お前のくれた楽譜のおかげだから」

 朝日。それを世間一般の常識に照らし合わせた場合――アオイの隣に座る骸骨姿の彼には、似合わないかもしれない。しゃれこうべには闇夜こそ、と思うかもしれない。だけれど、しかし。彼にこそ、彼らにこそ――この肌を温かく膨らませる太陽光。眩い命のきらめき。

(やっぱり、陽の本でお披露目して、良かった)

 控えめに光を散らすオニキスの黒い筋をうっすらと捉え、アオイは何とも言えず口を閉じた。
 ウソップがデザインした、猛々しくもユーモアを忘れない墓の立ち姿。フランキーにより細部まで丁寧に仕上げられた佇まい。チョッパーが、その小さな両手一杯に抱えて来た、色とりどりの花々。注ぐ、祝福の木漏れ日。これが麦わらの一味だ。ルンバーと麦わらの邂逅は、夜には決して似合わないのだとアオイは確信していた。
 だからこそ、自分の担当箇所が墓石の裏側というのは、妙に説得力のある配置だった。

「アオイさんにビンクスの酒の楽譜が欲しいと言われたときは、何か楽器をやられてるのかと思いました」

 ヨホホ、と朗らかに笑うブルックにアオイは釣られて一つ返すと、後ろに手をついてダラリとした姿勢をとった。

「俺が? まさか。音楽なんつー高尚な学問とは縁遠いぜ」
「おや。鉱物や宝石学、地質学にも精通してると聞きましたけど」
「実益があるからさ」

 肩を竦めて戯けてみせるアオイに、ブルックは「面白い人ですね」と歯をカタカタと鳴らした。

「ルンバー海賊団のための墓造りに、実益があるのですか」

 そう言うブルックの何もない瞳は、墓石に埋め込まれた深淵のオニキスをじっと見る。

「美しくまっすぐ掘られた五線譜。そこに埋め込まれたこの黒い宝石は――音符。楽譜のタイトルは、そう」
「ビンクスの酒」

 顔を見合わせて、それが合図だった。ブルックは下ろしていたヴァイオリンを構え直すと、ゆったりと弦に弓を当て、そのメロディーを紡ぐ。
 彼らの中にあったのは、共にあったのは。繋いでいたのは何かを考えた時、それは、音楽だったから。

(俺なりの、葬いだ)

 先日完成させた、墓石の裏面に掘り埋め込んだ五線譜を眺める。きっとブルックの音色なら、彼らも喜んで受け取ってくれるだろう。優しく心臓の横を通り過ぎる風に、アオイはゆっくりと瞳を閉じる。視界の端に、柔らかな光とオニキスの音が混ざって、溶けた。

 *

 木の葉の囁きに寄り添う音色が途切れるのと同時に、人の気配がしてアオイは目を覚ました。隣にいたはずのブルックがいつの間にか墓の正面に座り込んでいたのを見て、どうやら自分が微睡んでいたらしいことを知る。そしてその隣で手を合わせる人物を認めて、アオイは今度こそ瞳を開いた。

「海賊狩り」

 覚醒しきらない声色で言えば、ゾロは切れ長の瞳に呆れを滲ませて、こちらをちらりと見た。

「……てめェも寝坊組だと聞いたんだが、墓の前で眠りこけるたァ図太い野郎だな」
「ブルックの音が安眠を誘うんだよ。お前こそルンバー海賊団の墓に何の用だ」
「見て分かれ。供養だ」

 そう、視線で示された先にある刀。アオイは意外に思って、目を丸くした。

「――刀の」
「雪走」

 愛刀を潔く大地に突き刺すその姿に、彼の心の深さを知る。

「刀も、冥利に尽きるだろーな」

 だが、墓石の裏に刻まれたメロディーラインが突如脳内再生されてしまえば、アオイは吹き出す自分を抑えられなくて、ゾロから訝った目を向けられる。

「なに笑ってんだ」
「はは、いや。無愛想なお前の刀の魂が、ビンクスの酒に乗って見送られるのかと思うと――なんか、和んだ」

 笑いを噛み締めながら言うと、ゾロは表情を崩し、側近であった雪走を柔らかく見つめた。

「こいつを譲ってくれた男の顔を今思い出した。ビンクスの酒か。案外悪くねェ組み合わせだ」

 フンと鼻で一つ笑いゾロは立ち上がる。そして未だ笑った顔のままのアオイにまた呆れ顔を一つ、それからクイと顎を上げた。

「お前ェも行くぞ。これから先はこいつ一人、仲間と水入らずにしてやれ」
「あぁ――そうだな」

 サッサと先を行くゾロの背中を慌てて追おうとしたその時、アオイの翻る後ろ髪に――ヨホホ、と軽やかな笑い声。

「ありがとうございます。またあとで」

 振り向いた。少しだけ、時が止まる。

「……あぁ、あとでな、ブルック」

 ゆったりと流れる風といっしょに笑みを返してから、アオイは踵を返した。清らかな空気に背を向けた、そのつま先の向こう。とっくに先を行ったと思っていたゾロが待っていて――アオイは目をぱちくりとさせた。

「……何してんだ、行かないのか」
「てめェ、変わったな」
「は?」

 急になんの話だ、とアオイが首を傾げると、ゾロは一瞬だけこちらに視線をよこして、何事もなかったかのように歩みを進めた。アオイもそれに釣られ、後ろに着く。

「ウォーターセブンを発つ時のてめェを思い出した」
「へぇ」

 ザクザクと進む背中に相槌を打った。ゾロは振り向くことなく、少しだけ硬さを含んだ声色で続ける。

「俺は最初から、お前は胡散臭い奴だと思ってた」
「――ああ、忠告されたっけ、そうやって」

 宝石と、研磨機やらを運んでもらった時のことを思い出す。ハッキリとその口から、アオイは釘を刺されていた。アオイを乗せるのは、船長の判断に従うからだと。それだけだ、と――

(懐かしいな)

 手の内を明かす、その器の大きさ。

「お前はずっとそうだったよな、海賊狩り。俺に対して、誰よりも警戒してた。……正しい反応さ」
「……それは、てめェがこっちを警戒してたからだ」
「え?」

 思わぬゾロの返しに目を丸めて、間抜けな声が出る。そんなアオイにゾロは少々面倒そうにため息をついて、振り返った。

「仲間入りする前まで、おれにとっちゃてめェは胡散臭いが、悪い奴ではない。そう思ってた。チョッパーを助けてくれたわけだしな」
「――――」
「それが仲間になって今度は――船に乗った途端、てめェは態度を変えた」

 指摘され、ハッと息を飲んだ。

(確かに、気合い入れなおした)

 仲間に悟られてはいけない。男装が知られてはいけない。秘密を暴かれてはならない。巻き込むことは、できない。所詮は仮宿なのだと――あまりの麦わらの一味の引力に、恐怖した。彼らから、関わりから逃げるように、宝石に向き合った。迷惑をかけて貸しができないように、距離を置いた。そうして倒れて、みんなに心配をかけて。
 アオイの表情を読み取ったのだろう、ゾロはため息を一つ吐くと、「自覚はあったわけだな」と横を向く。

「仲間内で警戒心を露わにされれば、こっちだってそう返さざるを得ないだろうが。てめェが1人隠れて腹の中を明かさないように努めれば努めるほど、おれの中の疑惑は募っていった」
「……つまり、俺の出方次第だったってことなのか」

 ゾロはアオイの驚きに満ちた問いには答えず、これでおしまいと言わんばかりに横顔をしまうと、「自分で考えろ」とぶっきら棒に言った。

「先に戻る」

 その背中を、アオイは黙って見送った。
 透明な風が森を通過して、朝日は少しだけ高くなった。空は澄んでいた。
 ――もうここに、闇はない。

「いい音だ」

 ブルックの奏でるヴァイオリンの旋律が、音のない空に吸い込まれていった。

(20171011)
Si*Si*Ciao