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潮風が、朝の空気を遥か水平線の彼方へと運ぶように、優しく舞い上がる。アオイの髪がそれに寄り添って、柔らかく後ろにたなびく。
気持ちの良い朝だった。黎明に聳える、アクアマリンのような透明な海の反射を胸いっぱいに吸い込んで、アオイは目を閉じる。白いフェンスに手をつき、暫し、光の余韻に浸る。
ダイニングキッチンの上、ナミのみかん畑やロビンの花壇、ウソップ工場支部がある上甲板は、アオイがサニー号で気に入ってる場所の一つだ。特に、この明け方が一番美しいとアオイは思っている。見渡せる海はいつでも自分を静かに見守ってくれて、朝露を弾く開いたばかりの木花や果実は芳しい。近くにあるキッチンの煙突からは、生きるための火の終焉――煙が立ち上る。今ここに“生きて”いるのだと、安心感を与えてくれるのだ。
こんな、郷愁に似た切なさを覚えたのは、いつぶりだろうか。なぜだか、鼻の奥がツンとした。花々の香りの、煙の細かな粒子が、きっと忍び込んでいるに違いなかった。
振り払うように目を開いて、煙突から顔を背けた先、眼下に広がる芝生甲板に雑魚寝を決め込む一味の様子を眺める。自然と溢れる笑み。
(前にもあったな、そういえば)
昨日は、一日中宴、宴、宴だった。ブルックが仲間に加わり、そして自分の処遇も仮宿として認められた。隠していることを隠さなくてもいい――それだけで、アオイの心は今の海のように透明になれた。黒く淀んだ穴が自らにあるのは確かだが、それを共有せずとも――ともにいてもいい、と。
「しかも、利用してもいいだなんて、さ」
利用し終えた時は、船を降りる時なのだが。
「――能天気な奴らだ」
彼らは、だいぶ自分のことを甘っちろい奴だと思い込んでいるらしい。アオイ本人も、確かに言われてみれば、一味に肩入れし過ぎていると自覚はした。言われてみれば、だが。
(でもな、たぶん。最後の最後は、譲らねぇよ)
誓いはかたい。捨て去れないのは明確だ。
(もちろん、あいつらの信念も竹みたいに強靭だけど)
昨日、スリラーバーグからの出航の際を思い出す。ルフィが兄であるエースから託されたという、ビブルカード。これが焼け落ちてしまいそうなくらい小さくなっているにも関わらず、彼は「兄には兄の冒険がある」と言い切って、自分の出る幕はないとばかりにあっさりと前を向いた。手にしたジョッキをそのまま掲げて、何とはないとばかりに、宴を始めて。――たとえグランドラインにいる選ばれし海賊とはいえ、そう心を決められる者が、果たしてどれだけいるのか。
「船長の覚悟は、死すら抱いてるな」
覚悟の強さ。それだけは、この一味と共鳴できるのかもしれなかった。
「……そろそろかな」
アオイの思考を遮るように、鼻腔に微かな香ばしい匂い。どうやらサンジがオーブンを使い始めたらしい。アオイは一度深呼吸してから、上甲板からダイニングへと直接繋がる梯子へ向かった。
*
「はよ、コック」
「ああ、おはよう」
片手を上げて言えば、向こうは既に気配を察知していたらしい。別段驚きもせずにアオイをちらりと見ると、オーブンから離れてカップを取り出した。その口元には仄かな笑みが浮かんでいて、アオイはどうしたのだろうかと首を傾げる。
「朝から何か、良いことでもあったのか?」
「あ? 何のことだよ」
「だってお前、顔ニヤついてるもん」
「え?」
自覚はないらしいが、一拍置いたサンジはすぐさま「あぁ、思い出し笑いだ」と喉で笑って、パチンとコンロに火をつけた。
「前の宴会のあとも、こんなんだったなってな」
「前っつーと、スリラーバーグでのあれ?」
「じゃなくて、お前とフランキーの歓迎の」
「ああ」
とまり木に腰を掛けたアオイは、カウンターに頬杖をつきながら追憶に耽る。さっき、寝転がる一味を見て自分もあの時を思い出していたのだから、彼とまた思考が重なったことに、どこか擽ったさを覚えた。
「お互い、朝の早いのに驚いたんだっけ」
アオイの呟きにサンジは頷いて、吸い終わったタバコを灰皿に押し付けた。
「おれは朝食の準備で人より早いのは当然だが、お前は何でだ?」
「夜遅くまでデザイン考案することもあるんだろ」と続けるサンジに、アオイはうーんと首をかく。考えてみれば、いつも早起きというわけでもないはずなのに、この船に乗ってから少し変わった気もする。
「朝が好きなんだ。……サニー号の朝は、特に。海が綺麗なのを、改めて思うっつーか」
海の香りを思い出して微笑むアオイに、サンジも穏やかな声色で返した。
「ああ、分かるな。おれも食事の支度の前は、上の甲板で海見ながらタバコ吸うのが日課だし」
「ん? ――なぁ、それって、今日も?」
思わず頬杖を外して尋ねる。アオイのどこか怯えた問いにサンジがきょとんとしたのは一瞬だけで、すぐにこちらの言いたいことに勘付いたのか――人の悪そうな笑みを浮かべた。
「勿論」
「や、ちょっと待て。今日俺、そこで寝てたんだけど」
(ってことは、)
青褪めるアオイの嫌な予感を、サンジは笑顔で切り裂いた。
「お前の間抜けな寝顔を見たかどうかは、ご想像にお任せするぜ」
(マジかよ!)
「くっそ、最低だ俺!」
カウンターに項垂れるように突っ伏せば、軽く転がしたような笑いを零されて、ますますアオイは顔を上げることができない。
「何だよ。てめェの寝顔見るのなんざ、別に初めてでもねェのに」
「それって、意識失ってる時だとか、そういうのだろ。完全に安眠してるのとは、違うだろ」
恥ずかしい。恥ずかしすぎる! 絶対に気の抜けた顔をしていたに違いないのだ。それを見られていたなんて! 完全な失態である――
アオイが頭を抱えれば、サンジは今度こそ声を出して笑った。
「はは、お前、耳まで真っ赤」
「うるせぇくたばれラブコック!」
アオイはバッとストールを顔中に巻きつけると、耳も目も隠して更に突っ伏す。どうやらそれがサンジのツボに入ってしまったらしく、揶揄う笑いは止まらなかった。
「カタツムリか、お前は」
「うるさい。お前キライ」
「あー、はいはい。悪かった悪かった。これで機嫌直せって」
トン、と顔の真横に置かれた物を、くいとキャスケット帽を持ち上げて、睨むように横目で見る。視界いっぱいに揺らめく、少しだけ青みがかった鮮やかなガーネット。ハッとして、息を呑んだ。
「紅茶。朝はすっきりストレート、だろ?」
その表情は、見なくても分かった。
(ああ、くそ)
本当に、気の利く奴なんだから。
「それ飲んだら――」
サンジはそこまで口にすると、何か思い出したように目を瞬かせ、未だ仏頂面のままのアオイの後頭部を見た。
「悪ィ、ちょっと取りに行くモンあるから、オーブン見ててくれるか」
「え?」
「今すぐどうこうなるモンじゃねェから、まァ見てなくても大丈夫なんだがな、本当は。念のため頼むぜ」
サンジはそう言い残して、少しだけ慌てたようにダイニングを後にした。
ポツンと取り残されたアオイは、むくりと起き上がり、サンジの出て行った扉をぼうっと見つめる。それから手元の紅茶に視線を移して、次にオーブンを見て、暫くその姿勢でいた。オーブンの音だけが響く部屋に、一人きり。何だか少しだけ寂しくて、紅茶の色だってさっきよりも輝きが失せたような気がして、カップを持つ手に喜びはあまりない。
けれど喉は乾いている。身体の赴くままに口をつければ、相も変らず素晴らしい爽やかな甘みに、心臓部分がホッと温まるのを感じる。
「やっぱ、美味いよなぁ」
一人旅をしていた時は、カフェ巡りなんかも好んでしていたが、ここまでの味に巡り会えたことはない。それを毎日のように提供してもらえるなんて、どれだけ贅沢なのだろう。
(目覚めの飲み物がこれって、ちょっとダメだ)
それ以下を、いつか受け入れられなくなりそうで。とんだ甘ったれた思考である。馬鹿馬鹿しい自分を落ち着かせるように、アオイはゆっくりと紅茶を口に含んだ。
それからすぐ、中身のそんなに減らないうちにサンジは戻ってきたが、アオイは彼の手に握られたそれを見てギョッと目を見開いた。
「お前、シャワーまだだろ。朝食までまだ時間あるから、それ飲んだら浴びてこい」
バサリと置かれたのは、先日までアオイがお借りしていたサンジの服だ。アオイは実は二度と着るつもりもなかったので、引き攣る顔を隠せない。
「おいコック。まさか、それに着替えろって?」
「またナミさんに言われるよりいいだろ。それに、絶対今のその服よりこっちのが似合う」
力強く言うサンジは、自身のファッションセンスに相当自信があるらしい。以前他のクルーが、アオイがサンジの服を着ている姿を褒めた時にだって、きっと自分のセンスが褒められたように感じたはずだ。
「……馬子にも衣装っつったのは誰だ」
ジトリと言えば、サンジはタバコに火をつけて神妙な面持ちになる。
「あー、まァ確かに、だいぶデカそうだけどな。肩幅とか合ってねェし」
「真面目に答えんなよどうせ貧相だよ!」
「筋肉増量頑張れ」
「おら、早く行かねェと時間なくなるぜ」と言われてしまえば、アオイは何も言い返すことができない。確かにシャワーは浴びたかったし、着替えを持ってきてもらえるのはかなり有り難かった、が。
(なんか、マジでこれってペットじゃねぇか、俺)
その彼特有の優しさに、アオイはどう受け答えればいいか――少しだけ困り始めていた。
(20171022)