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ラピスラズリの距離
ぼんやりと目が覚める。ゴウンゴウンと波の上を滑るサニー号の揺らめきを直接耳の下に感じ、その心地よさに暫く微睡む。それからゆっくりと起き上がると、知らぬ間に掛けられた上着がポロリと床に滑り落ちたのに気付いて、俺は思わず眉をひそめた。
「これは……」
黒のジャケット。一目見て、そして微かに香るそれに、誰の物かなんてすぐに分かった。だがなぜ彼が、わざわざウソップ工場本部のこの部屋まで訪れ、これを自分に掛けたのか。
ぼーっとする思考のままでは答えなんて導けない。脳みそをほぐすため肩を回し、今は何時だと時計を見やって、俺は「げっ」と声にならない声を上げた。
「しまった……」
今日は夜中2時から、交代で不寝番だったはず。俺はジャケットを慌てて(なるべく皺にはならないように)腕に引っ掛けると、ダッシュで展望台までの道を駆け上がった。
甲板に出ると、広がる黎明の空と海。深い海面には貝殻のような乳白色が綻び始め、色のファンファーレが始まろうとしていた。ぽうっと見やる。
だが、この時間帯だからか肌を撫でる風はひんやりとしていて、微かに身体が震えた。慌てて出てきてしまったが、自分の上着くらいは持ってくるべきだったか――いや、後悔するよりもまずは目的地まで行くのが先だ。そこできっと、鼻息荒く奴は俺を待っている。謝らなければ――
俺はもう一度だけ海を眺めてから、冷たくなった梯子に手をかけた。
その上から香る、いつものタバコの香り。きっと奴も俺の気配に気付いているだろう。ふーと息をはいたのがわかった。怖い。
急いでよじ登り穴から身を出せば、バチリと目が合った。怒りに吊り上がっていると思っていた目尻は、どちらかと言うと眠たそうに垂れていて、俺の罪悪感を更に増幅させた。
「悪い!」
「……ようやく来たか」
「……寝過ごした」
「んなこた知ってるよ」
タバコを灰皿に押し付けて、コックは思い出したようにふっと笑った。
「ほんとお前、いくつだよ」
「え?」
「床にのびてるみてェに、腹出して寝てやがんだもんな」
「な、腹はまだ出てねぇ!」
「そういうこと言ってんじゃねェんだが……」
それに、腹やその他肌が出るような服は絶対着ない。まぁ奴の嫌味な表現だとは理解しているが、ということはコックは、俺が不寝番であるにも関わらず寝過ごしていたのを見逃したのか? わざわざ上着までかけて?
ーーほんと、たまに、訳がわからないくらい、優しい奴だ。
「……本当にごめん。お前も眠かったよな。このあと朝食も作らなきゃいけないのに……悪いことした」
「ほんとにな。……でもまぁ、昔みたいでちょっと懐かしかったぜ」
「昔?」
タバコを一本取り出し、シュボっと火をつける。淡いブルーの朝焼けをバックにしたコックは、縁取られた窓と相まって――認めたくないが――絵画のようだった。
「グランドラインに入ってすぐの頃は、まだクルーが今の半分くらいだったからな。不寝番は丸一日だったんだよ」
「へぇ……」
「ま、今から寝ても調子出ねェだろうし。……それに、ここから見る朝焼けは悪くねェ」
そう、優しく言うコックの視線をなぞって窓の外を見る。眩しい水平線。秋と夏の狭間の柔らかく厚い雲が幾重にも重なり、深い藤色のグラデーションを描く。そこから零れ落ちる光は木漏れ日のように波間を照らし、青々とした海をぐんと鮮明に映し出していた。
窓から射しこんだ光の矢で照らされたコックの煌めく星色の髪に、空と海が重なった瑠璃色が溶け込んで。
「……ラピスラズリみたいだ」
ほぅ、と息を吐けば、目の前のコックは海だけを見て、「ふぅん?」と笑った。
「さすが宝石職人、言うことが違うな」
「だって、本当に綺麗だ。宝石みたいに」
「……まぁ、そうだな」
それから無言になっても、コックは別に男部屋に戻りも、ダイニングキッチンへも向かわなかったし、それに対して俺も何も言わなかった。
「……っくし」
「――あぁ悪い、火まだ入れてねェんだよ」
「知ってる。燃料費節約のため、秋島に着くまでは禁止なんだろ」
「そーゆーこった」
船の旅は、いつどうなるか分からない。何事も質素に、節約を心掛けるのが常識だ。
ふと、そういえばジャケットを持ったまま返してなかったことに気付いて、なんだか俺はあたふたしてしまった。ずっと手元にあるのが、どうも気恥ずかしい。
「これ、悪かったな。お前のだろ」
コックは「ああ」、と何でもなさそうにこちらを 一瞥すると、視線を剥がしてから言った。
「いいよ、お前それ着てろ」
「え、何でだよ。コックも寒いだろ」
「そうでもない。こんな気温でくしゃみするなんざ、筋肉足りてねーんじゃねェのか、テメェは」
「なんだと!」
勢んだところで急にふーっと吐かれた煙に、思わず顔をしかめる。それから少しだけ睨むと、コックはイタズラが成功したみたいに笑ってた。どっちが子どもなんだか。
「こういう時は素直に甘えとくもんだぜ」
「……子ども扱い、された気がする」
「まぁチビだからな」
「よし表へ出ろ、ぶっ飛ばしてやる」
「大人は朝からそんな元気出せねェの。悪いな」
「くっ……!」
いつもだったら乗ってくるはずの喧嘩を流される。まぁこうして不寝番をサボってしまったのは俺だし、こいつはこの夜中ずっと起きていたわけだし、仕方ない。なんせ、全ては俺のせいだ。
それなのに、こんな喧嘩腰の俺に上着まで貸してくれるなんて――やっぱり優しいのだ、コックは。
「……借りる」
「おー、着とけ着とけ」
大人しく袖を通せば、苦い香りに包まれて落ち着かない。どうしてもコックが、近くに感じてしまうのだ。目の前に、いるのに。
「ふ、ブカブカ!」
「うるせーな」
軽口を言い合う。
それでいい。今はこの香りに落ち着かない自分も、そのうち慣れてくるだろう。距離にもきっと、慣れる。
きっとすぐに終わってしまうサンライズと、照り返す金色を眺めて。こんなひとときも悪くないなと、俺は朝の空気を胸いっぱい吸い込んだ。
(宝石の一部はコックの一部なんだってこと、絶対に言ってやらない!)