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サファイアの涙
カツンとした硬質な音がペンを置いたそれだと気付き、片眉が吊り上がった直後だった。間も無くしてダン! と盛大な地響きが静謐な測量室に鳴り渡ると、俺は弾かれたように読んでいた鉱物図鑑(ちなみについ最近出た最新版だ)から顔を上げた。
測量室のセンターステージ。本日ノルマ分の海図がようやく描き終わったのだろう、航海士は高く積み上がったそれらを力づくで机の端に寄せると、参考資料の分厚い本やら古い書類やらをテキパキと引き出しや本棚にしまい始めた。その所作は、いつも以上に乱暴だ。
「あー、相変わらず私ったら仕事早いんだから! 今日も一段と冴えてたわ!」
「そりゃ良かったな」
「……なによ、嫌味なわけ?」
「俺にあたるなって。お前の力量の問題だろ?」
経験則として、こうなってしまった彼女には触らぬ神に祟りなし。と分かっているはずなのに、売り言葉に買い言葉。存外餓鬼っぽい自分に苦笑い。なんせ、俺にだって専門としてのプライドがあるのだ。退けないラインというものがある。
「仕事が遅れたのは俺のせいじゃないからな」
「分かってるわよ……私一人じゃ無理だったし」
それまでの勢いを細い吐息に詰め込んだ気弱な航海士は、欲張りにも勝気なその美貌にさらに健気さを上重ね、この世の大体の男なら何でも言うことを聞いてしまうのではと思うほどのいじらしい魅力を滲ませた。
まぁ、俺には関係ない。閉じた図鑑が、軽く空気を叩いた。
「……とにかく、そこの海域。その秋島の鉱物の割合からして、前にお前が予想した海底プレートにはならない。磁場も異なる。これはほぼ確信を持って言える」
「そうね、こちらの仮説が外れたわ。あんたの説を当てはめれば、あの不規則な潮の流れに説明がつくんだもの」
グランドラインが幾ら予測不能な海とはいえ、この世の俺たちが踏みつけている地面は鉱物だ。元素だ。そこに存在しているカタチがそのカタチである理由が必ず存在する。正直マニアックすぎるが、ことグランドラインは島が持つ鉱物が船旅のルートに影響を与える。正確な海図を書くのであれば必要な知識のはずだ。
「……ま。またなんかあったら呼べよ。俺も海図なんかは描けねーけど、鉱物の観点からなら助言するから」
「助かるわ」
ありがと、と力なく机に突っ伏し、こちらを見ずに手をヒラヒラと振る航海士の細い指。幼い頃から海図を書き続けたという中指には、ペンダコができているのを俺は知っている。美容に手を抜かない彼女のそこだけがアンバランスで、好感が持てるポイントだった。
そしてそこには普段見慣れない輝きがはめられている。今日一日中ずっと口にしようかどうか迷っていた俺は、うずうずとはやる気持ちを抑えて、静かにこう言った。
「……その指輪、初めて見るな」
「ふふ、さすがに目ざといわね」
「よく気がつくと言ってくれ」
職業病だと言えば、笑いながら航海士は光に照らした。
青のサファイア。遠目にもきちんと手入れされていることが分かるその反射を受けて、目が細まる。だが、彼女が懐かしげに眺めているその指輪は――正直。
「……航海士らしくないデザインだよな」
近寄って、頑ななまでにその上品さを死守するジュエリーを覗き込んだ。
――どこか孤独にも見える、意地を張った石。
「あはは! あんたも、やっぱりそう思う?」
「ああ。カットも指輪の台の形も、なんというか……」
「分かるわよ。古臭いって言うんでしょう?」
「いや……さみしそうだ」
「…………」
俺の言葉には何も答えず、航海士はどこか懐かしそうに青玉をかざすと、ポツリと言った。
「これね、盗品なの」
「へぇ。それなのに売らずに手元に置いてるだなんて、お前らしくないな」
「うーん、思い出の品ってやつ?」
「盗品が?」
「そ」
「私の一方通行よ。誰にも言ったことがないの」と肩をすくめる航海士は、それでも誰かに聞いてほしそうな瞳をこちらに向けた。
正直、人の過去には興味がない。だが、人に触れた石には、持ち主の歴史が宿る。石の表情で、持ち主がどんな人となりなのか分かることさえある。
時代に逆らうように「今」を守るこの指輪が、空の天気のように奔放な目の前の彼女に大事にされている理由とは?
輝く理由は、石の持つ力だけではないのだーー
「続きを聞いても?」
「ふふ、特別サービスよ? ……私ね、血の繋がりはないけど、この石に似た髪色の姉がいて。昔海賊専門の泥棒としてひたすらお金を稼いでいた時、たまたま盗品の中にこの指輪があってさ。見るからに古いし、華やかさも私に負けてるじゃない? すぐに質屋行きの袋に入れようと思ったんだけどね」
そう言って彼女は指輪を外すと、リングの裏側を俺に見えるように傾けた。
――君の魂に捧ぐ xxx年xx月――
「……この文字、見ちゃったら。これを捧げられた人は、どんな高潔な、綺麗な魂を持ってたんだろうって。こんな深い青色に例えられた人が身に付けてた、重い指輪なんだって思ったら――なんかね、姉の姿が思い浮かんだのよ。で、その時の私はといえば、ただの泥棒なわけ。……なんだか泣けちゃってさ」
笑っちゃうでしょ、とケラケラ肩を揺らす航海士に、俺はどんな表情を返しただろうか。
彼女の過去に興味はない。会ったことのない彼女の姉にもまた、興味はない。その指輪に掘られた、過去の持ち主にも想いは馳せない。
けれど、気丈に振る舞う航海士は、自ら憧れる高潔さの先に、青い姉を思い描いている――
「……見ていいか?」
「えぇ、どうぞ」
手に取り、光にかざして、ポシェットに入れておいたルーペを取り出し覗き込む。
冷たく、美しく厚みのある、クラシカルなゴールドの台
淡いインクルージョン
堅牢なカットに囲われた、内側から放射するかのような――
眩いスター
それは、屈折に屈折を重ねるからこそ。
気高い。
「……俺はお前の姉は知らねぇが」
航海士の、苦労を知るかたい手のひらに、柔らかく置く。
「この指輪は、姉じゃなくお前じゃないと似合わないよ」
「え?」
光の筋が、キラッと流れた。
「お前の涙が、こいつには相応しいってことさ」
表情を忘れた彼女は、俺の言ったことをゆっくりと飲み込むと、少し照れたように、可愛らしく笑ったのだった。
(あんたって、天然たらしって言われない?)
(うん?)
(はぁ、そりゃサンジ君も対抗するわけね)