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その悪魔、月夜に舞い降りて

 この時期の秋島の夜は、肌に優しく過ごしやすい。時たま鋭利になる気まぐれな風に服を重ねる日もあるが、今日は突風などはなく、穏やかな風がこの街を散策していた。街の至る所に飾られたカボチャの火と、風は踊るように揺れる。空はとっぷりと暮れて深い藍色に染まっているが、相反する街の火の色はどこか非日常で、俺としてもこの祭りのような雰囲気が嫌いではなかった。
 この街を彩る鮮やかな色彩――オレンジや紫、黒など――少し闇を孕む危うさに、人々は浮き足立って見えて、俺の童心を擽るのだ。
 だが、もうその街とも今日でおさらばになる。ログも溜まったし、買い物も充分にできた。俺は気を取り直してパリッとした茶色い買い物袋を抱え直した。その時に腕の裾がほつれていることに気付いて、帰ったらすぐにでも修繕をしようとそこを少し撫でる。 その様子を、ナミに見られていたらしい。彼女は俺をまじまじと上から下まで眺めると、わずかに残念そうに眉を顰めた。

「あんた、いっつもその服装よね。元は悪くないんだから、もう少し着飾ればいいのに」

 もったいない、と呟いたナミはといえば、赤銅色の上品なブラウスをこれまた上品にゆるく纏めた髪と組み合わせており、抜群に着こなしている。耳元には大粒のパール(どこかの盗品に違いない)。下に合わせている刺激的な丈のスカートは深草色で、足元は黒いレースアップヒールだ。上下の対比が彼女の個性を強く引き立て、だが決して派手すぎない色合いは極めてセンス良く俺の目に映えた。 こんな時の彼女には、控えめに光る淡いイエローのブレスレットなんてどうだろうか。もしくはどこまでも深く思慮深い紺碧の指輪でもいい。
 脳内コーディネートをする俺は、その後もナミが俺をじとじととした目で見続けているとは知らず、彼女のため息で現実に引き戻された。

「宝石職人なんだから、少しは自分の身だしなみにも気を遣いなさいよ」

 じゃあ金を寄越せ――とは、命の価値を信じれば決して口にできるものではない。

「……別に、清潔ならいいだろうが」

 他の男性クルーを見れば、おしゃれを自称するラブコックを除いて皆制服かのように同じ服を日々身に纏っている。それが悪いわけではない。洗濯だってしているし、何より落ち着くことはいいことなのだ。
 確かに、ナミやロビンが楽しげに買い物から帰ってくるのを、全く羨ましく思わないかといえば、嘘になるが――そんな感情は無意味だと思うのに、どこかモヤモヤとした気持ちが晴れないのが、欝陶しい。

「……もうこんな時間だ。待機組がそろそろ痺れを切らすぜ。早く帰ろう」
「待って」

 俺の少し不自然な早足に待ったをかけるように、それまでニコニコと話を聞いているだけだったロビンはその長い足を急に止めると、カボチャが照らす大きな窓ガラスの中を覗いて、くすりと笑った。
 あまり彼女のしない悪戯っぽいそれ。この怪しい光が俺に幻を見せているのか。

「ねぇナミ、私たちで彼に新しい服を見繕ってあげましょうよ」
「え?」

 急に何を、とナミも思ったことは間違いない。だがロビンの視線の先をナミはぐいっと覗き込むと、意を得たりとばかりに人の悪い笑みを浮かべた。

(これは、まずい)

 防衛本能が、俺に逃げろと鐘をついているー!!

「そうね、今はハロウィンだもの! こういうのもアリだわ!」

 逃げようとした俺の肩をナミは無理やり掴むと、俺の首根っこを掴み引きずって店内へ突き進む。もがこうとすればロビンの能力が俺の肩や脚を拘束した。その本気度と――その店内を見て、俺は喉がひっくり返るくらいの悲鳴を上げた。

「な、な、な! 何考えてやがんだお前ら!」
「ふふ! 中性的な子を着飾るの、一度やってみたかったのよね!」
「女性ってどこかそういうところあるわよね。私もこの子がどうなるのか、興味あるわ」
「あとでメイクもしましょうね!」

 ダメだ、これダメなやつだ……! これまで感じた中でもかなり上位に入る危機感に、俺は震えざるをえなかったのだった。


*****


「うわぁーー!!」

 何故だ何故だ何故だ!

 軽やかな裾が、慣れないハイヒールを履く足に絡みついて腹立たしい。スースーする股あたりにも違和感があって何やら気恥ずかしく、鼻先や睫毛を掠める見慣れない金髪の巻き髪は、この上なく邪魔で鬱陶しかった。

 本当に、何だっておれはこんな思いを――!

 抵抗も虚しく、ロビンのハナハナの実の能力でサニー号の甲板まで勢いよく運び込まれると、俺は慣れない服のせいで受け身を取るこもできずに、柔らかい芝の上に転がった。慌てて顔を上げようとしたが、そこで夕涼み中の男性クルー陣の注意が一斉にこちらに向いた気配がして、血の気が引く。そのまま俯いた下で、俺はなんて間の悪い、と奥歯を噛んだ。

「ん? 誰だお前ェ」

 気安げに、だけれど心底不思議そうに近寄って来る船長。引いたはずの血が一気に逆流し、身体中が熱くなるのが分かった。

――こんな姿を見られたら、俺は恥ずか死ねる!!


*****


 全ての悪夢はあの店に連れてかれてから始まった。
 女という生き物がどれほど自己の欲望に忠実で、そしてそれを他人に押し付けたがるのかを、俺はまざまざと学んだのだ。

「おいマジでふざけんな! ここから出せ!」
「それに着替えたら出してあげるって、さっきから言ってるじゃない」

 ナミの高笑いが聞こえる。ロビンのよくよく聞けば普段とは違う高めの笑い声がよく響く。
 更衣室という名の閉ざされた――実際出るに出られない。ロビンの腕がぎっちりと出入り口を塞いでいるのだ――空間に、俺は一人押し込められていた。手に握らされたのは、極上のトルマリンのような光沢を放つ上品なブルーのドレス(ちなみにハイネックだ。これは有難いが……)に、どこの貴族かと見紛うゴリゴリに縦巻きになった金髪ロングウィッグ。しかもそれには期間限定だとかで悪魔のツノのカチューシャがくっついているときた。なんという要らぬ配慮だろうか。悪魔を何だと思ってるんだ! 悪魔とは、契約によって禍々しい力を操る存在だ。祭りだからといって、こんな浅はかなことが許されるはずない!
――という俺の叫びに全く取り合わず、2人は店員と相談やらなんやらしながらあらゆるファンシー衣装を物色した。

「こちらなどいかがですか? あちらのお客様に大変よくお似合いかと」
「そうねー、悪くないわ。でも、迷っちゃう。女装なら姫パターンが王道かと思ってたけど、天使とか猫耳も捨てがたいわねぇ〜」

(は!? 何の耳だって!?)

 愕然とした。

「あら、1つしかダメというわけじゃないでしょう? 色々取り入れてみたらどうかしら」
「……それもそうね! 折角だもの、欲張っちゃいましょう」

(いやいやいや。いやいやいやいや)

 待ってくれ。おかしい。そもそも俺は女装自体了承した記憶は全くないのに、そこにプラスしてケモノ? 何それむごい。

「おいお前ら、いい加減にしろ! 誰がそんなの着るっつった!」
「あら、着ないっていうの? あんたが欲しがってた標本図鑑、電話で頼んであげたのは私だってこと、忘れたとは言わせないわよ」

「な! あの時お前、気前よく頼まれてくれたじゃねーか!」
「電々虫って、お金かかるのよねー」
「お前の持つ資産からしたら微々たる額だろうが!」
「どんな節約も、近くの生活からよ」
「お前のは節約と違う!」
「ねぇナミ、私はこの悪魔セットを彼に着せたいわ」
「ロビンらしいわね、いいじゃない。それなら私はこのドレスにしよっと!」
「聞けよ!!」
「心配しなくて大丈夫よ。このドレス、仮装にするには勿体無いくらい生地も仕立てもいいから! あんたの姫姿は私が保証するわ!」
「聞けえぇぇぇぇ」

 それからあれよあれよと付属品――悪魔の尻尾や羽、透明なガラスを思わせるハイヒールなど――が更衣室に投げ込まれ、俺は呆然と鏡の前に佇んだ。
 扉を覆うロビンの手が解かれたが最後、その向こうはきっと地獄に違いない――

「楽しんだ者勝ちよ、こういうのは!」

 悪魔の尻尾が、楽しげに揺れた気がした。


*****


「なぁ、お前そのツノ何だよ! しかも黒い羽が生えてるじゃねェか!」
「ええええ! スカイピアの人間なのかー!?」

(それは違うしチョッパー! つーか来るんじゃねぇよ船長、頼むから!)

 好奇心に満ち満ちてこちらを覗き込もうとする船長を、思わず手で牽制する。もしもバレたら、俺はもうこの船どころか全海域でやっていけない。末代までの恥だ。

「み、見ないでっ……」
「んあ?」
「おいクソゴム、麗しいレディが怖がってるだろうが! 今すぐ離れろ!」

 コックはいきなり船長を蹴り飛ばすと、スタっと鮮やかに俺の前に跪いたようだった。その姿を直接見ることはできないが、俺にしてみれば慣れないそのコックの態度に、口を開くことができず、思わず固唾を飲んだ。

「――淡い湖面の輝くドレスに包まれる美しい貴女は、まさしく高貴な水の妖精! だがそれと相反するその、妖しく魅惑的な悪魔の姿……!」

 いつもの調子だ。いつもの彼なのだが、その言葉が自分自身に向けられていると思うと、小っ恥ずかしくて更に頬に熱が集まった。

「あぁ、妖精はおれを湖の底へといざなうスクバスなのか……! ――おれは沈もう、罪深い貴女の愛の底まで……」
「ふん、そのまま2度と浮いてくんじゃねェ、ラブコック」
「ぁあ!? 喧嘩売ってんのかクソマリモ!」
「はいはい、この子にちょっかい出すのは後でねー」

 ようやく後ろから現れたナミは俺をその背に隠すと、「さぁ、次はメイクよ!」と女部屋に移動するために俺の腕を掴んだ。

「おいナミ、そいつはなんだ」
「ゾロ。心配しないで。まぁ、ルフィの言葉通り迷子ってことでいいわ。あんたがそんな脅かすからほら、この子怖がって顔上げられないじゃない」
「んー! なんてかよわくておしとやかなんだ! チャーミーーーング! ……おいクソマリモ、それ以上レディを見るんじゃねェ。テメェの不躾な視線は毒にしかならねェ」
「テメェの伸びきっただらしねェ鼻の下に比べたらマシだ」
「なんだとこの野郎! 三枚におろしてやる!」

 いつものごとくアホらしいやりとりに辟易として、ナミの肩越しからこっそりと視線を送る。するとコックはそれに気付いたようで、目をハートにさせて身体をくねらし、とんでもないハリケーンを巻き起こしていた。まさか俺がこんな格好をするとは思わないからか、顔を見ても俺だと認識できないらしい。なんだか腹立たしいような、安心したような。

「そういやナミさん、あのクソチビはどうした?」

 ハッとして、俺は慌てて顔を逸らす。さっきまでのハリケーンはどこいった、と驚く俺とは対照的に、ナミは動じずに腕を組んでみせた。

「露店に珍しい石が売ってるって興奮して、そこの商人の家に着いてってたわよ」
「なんだそりゃ。トラブル巻き起こすんじゃねェだろうな、あいつ」

 コックは眉を顰めていた。俺はそんなトラブルメーカーに見られていたのか。心外にも程がある。――まぁ、エピソード的には間違っちゃいない。確かに石に興奮したのは本当なんだけど。

「あいつだって戦えるんだもの。そんな心配しなくても大丈夫よ、サンジくん」
「そんなナミすぁん! おれが心配するのはあなた方レディー達だけさぁ!」
「はいはい分かった分かった」

(……なんだか、やっぱり腹が立つなぁ……)

 自分がいないところで俺はこんな風に話されているのかと思うと、チクリと胸が痛んだ。
 だが、ここで態度に出して知られるわけにはいかないのだ。ここまできたからには腹を括って、せめてこいつらにはバレないようにしようと、俺は心にかたく決めたのだった。


*****


「――想像以上だったわ……」

 ナミは手にしたブラシを握りしめ、感嘆と俺の顔をマジマジと見つめた。顔に塗られた下地やらファンデーションやら瞼の上のシャドウやら、マスカラにチークに眉毛にetc etc...

「一体何重構造だよ、これ……」
「これでも薄くしたのよ。あんた引きこもってるせいか肌白いほうだし」
「これで薄いのか? 女ってのは毎日こんな面倒なことしてんのか。信じらんねーな」

 日頃感じない肌の異物感にうんざりと顔をしかめると、ロビンが横から「そんな眉間にしわ寄せないで。可愛い顔が台無しよ」と柔らかく笑むから、俺としては気にくわない。

「別に可愛くなりたいわけじゃねぇ」
「そうかもしれないけど、でも、あんたって化粧映えするのねー」
「えぇ、本当に。見違えたわ」
「だから、嬉しくねーんだけどさ」
「安心しなさい。どこからどう見ても今のあんたは女よ!」
「……お前ら分かって言ってるよな? もうやだ俺……」

 自分のメイクの腕にご満悦な今のナミに何を言っても無駄だろう。俺は目の前にあるドレッサーの鏡を見た。見たことのない人間と、目線が合う。確かに、自分でも驚くほど、この仮装によく似合う顔になっていた。髪型補正が強いのかもしれないが、それでも化けて映える。化粧とはよく言ったものだ。

(でも、本来これが、俺のあるべき姿といえば、そうなのかな……)

 こんな格好をしたのは、初めてだった。相応しくないとも思うのに、どこかで喜んでいる自分がいることに、心が痛む。
 それは、思わないことに決めている。
 気を紛らわせるように悪魔のツノに視線をやり、俺はため息をついた。

「はぁ、もう……こうなったら乗りかかった船だ。どうせなら男どもをからかうかな」
「いいわね! 乗ったわ、それ!」
「ふふ、チョッパーだけは匂いで気付くかも。香水を振った方がいいわ」
「げ〜。くさくね? 香水って」
「失礼ね。私のもロビンのも、質の高い、良い香りのばかりよ」

 むしろタダで使わせてあげるんだから、感謝しなさいよね! となぜか胸を張るナミに、なるようになれと――俺は諦めて、豊かに広がる花霞に身を包んだのだった。


*****


 夕闇に、ぽっかりと浮かぶ丸い月。今日の夕餉は月見も兼ねてというコックの発案で、甲板で摂ることになった。
 奴の料理はいつだって美味しいが、今日のはいつにも増して料理も味付けも処理も好みだ。だが勢いよく食べるのも憚られて、俺はこれ以上ないくらいお上品に食事をした。

「おいお前ェ、もっと食えよ! サンジのメシはうめェんだぞ!」
「ゾロ、そこにある酒取ってくれー! こいつに飲ませる!」
「テメェで取りに来い、ウソップ」
「お前香水臭い! 話したくても近寄れねェよ!」
「おう、嬢ちゃん。迷子とはおっちょこちょいだな。だが、この俺のコーラを飲めば、スーパー! な気分になれるぜ! お前さんには特別に分けてやるよ!」
「はぁ……」

 なんだそれは。スーパーな気分になるコーラとか、薬物混じってんじゃねーのか? という俺の白けた視線に堪えるわけもなく、フランキーはぐっと親指を立てる。それに言葉で毒づきたくなるも、今の俺はこの島1番のお嬢様ーーお姫様という設定らしいーーで、城で催された仮装パーティーから抜け出して迷子になってしまったというプロフィールの持ち主なのだ。男どもにバレるわけにはいかないから、粗相があってはならない。だから、俺の皿にまで手をつける船長にも、拳は振るわない。

 勧められた酒もコーラもはやんわりと断った。以前酒にのまれてテンションが上がってしまった自分だ。何が起きるか、分からないのだ。コーラは気乗りしないだけだが。
 ふと姿が見えない人物がいて、俺は辺りを見回した。

「――そういえば、コックさんは?」
「あぁ、お姫様にタバコの煙なんざ吸わせらんねェ! つって、あっちで一人タバコしてるぜ」

 ウソップがダイニングのある建物の裏を指差した。
 もっとからかおうと思っていた目の前の男どもは、中身が子どもだからなのか、女にそれほど興味がないからなのか(恐らくはどちらもだ)、女装というか――本当の女の姿になった俺に対して、男装時と何ら変わらない態度をとった。それは変わらない彼らの公平さを象徴していて嬉しかったが、この俺が恥を忍んでこんな格好をしているのに、何も感じないとは少々肩透かしを食らった気分だ。
 というか、正直に言えば――面白くない。

「そう……タバコなど構いませんのに。お礼のご挨拶も兼ねて、私もあちらで風に当たってきます」

 ナミとロビンを振り返る。2人はバッチリこちらを見ていて、俺の考えを分かっているようだ。美しい顔をニヤニヤとさせ、ナミに至っては「グッジョブ!」とフランキーのように親指を立てている。

(やっぱからかい甲斐があるのは、コックだよな!)

 俄然楽しくなってきた俺は、おしとやかに柔らかく席を立って、コックのいるところ目指して足を運んだ。


「お隣、お邪魔してもよろしいでしょうか」

 わざと気配を消して近づくと、驚いた顔のコックがタバコを落としそうになりながらこちらへ振り向いた。奴は手すりにかけた腕を慌てて離すと、恭しく俺に向き直る。

「これは、美しい小悪魔なお姫さま! なんで、こちらに?」

 小悪魔か。なんだか笑ってしまうが、確かにそういう意図があって、俺はここにいるわけで。

「美味しいお料理をご馳走になりましたので、お礼に。それと、タバコもお気になさらないで」
「……参ったなァ。女性に――特にレディのような身分の高い女性には、こんな害にしかならねェもの、吸わせたくないんだが」
「あら、結構慣れておりますのよ」
「本当かい」

(お前のタバコの匂いにはな)

 今となっては、もうそれだけでコックがいるかどうか、判断ができるくらいにはよく記憶している。

「でも、レディはやっぱりそういう香水の香りのがいいな。可愛い君に、よく似合ってる」

 コックが柔らかく紡いだ紫の煙が、温かい闇に溶け込む。波の気配はなく、コックはいつもと違う、どこか余裕のある表情を覗かせていた。

(これが、女に見せる顔なのかな)

 なるほど、本人が過去に“プリンス”と名乗るくらいには、確かにモテてきたのかもしれなかった。
 ――それくらい、俺でも分かるくらい、どこか今は、雰囲気が違うのだ。
 それはこの闇夜のせいかもしれないし、表情のうかがえない夜の海のせいかもしれなかった。
暫しの沈黙。落ち着かない心臓に俺は内心焦っていた。からかいたいのに、無難な会話しか浮かばないのが悔しい。

「さっき褒めてくれたが、高貴な君に、おれの手料理は口にあったかい?」

 話をこうして振ってくれるのも、女性相手、だからだろうか。やはり紳士なのだ、彼は――

「……はい。お料理本当にどれも美味しくて。全部、私の好きなお味でした」
「へぇ? なら、あいつと食の好みは一緒かもな」

 ――あいつ?
 誰のこと、と口を開く前に、コックが先手を切った。

「今日のメニューは、まぁ……今ここにいないクルーの好物でさ。なんとなく今日作ってやるかって気になって」

 「なのにあいつ、戻ってこねェし。人の気も知らねェで」と、少し不機嫌そうに新しいタバコに火をつけるコック。

(俺の、ため……?)

 内容があまりに――思ってもみなかったことだったから、姫設定も、言葉を継ぐことも忘れた。
 そういう気分だった? そんな時もあるのか。いや、それよりも。

 ――しっかり、見ていてくれてたのか――

 好きな料理を、殊更口にしたことなどなかったのに。

「……よく、見てらっしゃるのね」
「あいつ、なかなか言わねェからな。これ食いたいとか、そういうこと。だからおれが見て、気付いてやるしかないんだよ」

 何でもないように燻らせて、続けた。

「だからまァ、おれはこの船の料理長として、いつかあいつの口から「コックのこの料理が食いたい!」って言わせるのが、とりあえず目標だな」

 ニカっと笑った顔は、無邪気で、闇空よりもそこに浮かぶ月みたいに明るかった。

(なんだろう。じわじわとほどかれていく、この気持ちはなんだろう)

 ――これが、嬉しいという、喜びだろうか。

「今日のは、本当によく味がまとまった。あとであいつが嘆いても知らねェよ」
「――いつもより美味いの、気付いてたよ、コック」
「……へ?」

 呆気にとられた顔をしたコックに、俺は精一杯、小悪魔ぶって微笑んでみせた。

「俺、アレ好きだな。また食いたい!」
「……は」

 ――その、奴の顔ときたら!

 かたまって動かないコックの口元から落ちたタバコを危険だからと拾って、俺は海に投げた。それでも微動だにせずこちらを凝視した奴に堪えきれず、腹を抱えて笑う。
 月明かりに照らされて、ツノと、揺れる尻尾の影が、見えた。

「他のクルーには内緒だぜ、王子さま?」

 青い月光に、尻尾とドレスの裾を翻して。俺は残り香と鼻唄まじりに、女部屋へと戻ったのだった。


(おーいサンジー! お姫様帰っちゃって、代わりに――って、どうしたサンジ!)
(……やられた……ほんっとクソありえねェ……!)
(うずくまってどうしたんだよ!)
(しかも聞かれてたとか……つーかあれは詐欺だろ! 誰だってあんなん……っ!)
(サンジ、顔赤いじゃないか! もしかして熱か!? 医者ー! あ、医者はおれだァー!)
(ちょっと黙っとけチョッパー!)


(ていうかあんた、言葉遣いよくできたわね。普段口悪いくせに)
(雅だったわ)
(そうか? ま、俺が本気出せばあんなもんだろ)


 それから、チョッパーが宝石職人から漂う残り香が、あの彼女のものだと気付き大騒ぎするのも。
 暫く周りからからかわれ、立ち直れないサンジの姿が見られるのも、数刻先の話である――
Si*Si*Ciao