月明かりが差し込む窓を開ければ、夜風。家の中を恥ずかしげに通るそれに笑って、私は採れたてのナスとピーマン、それから玉ねぎと、少々の生姜を取り出した。豚肉は既に解凍してるから、あとは調理に取り掛かるのみ。
腕捲りをすると、いつものように足元の扉を開いて包丁を引き抜き、昨日庭で採れたばかりの、品のある紫色の光沢に刃を入れた。
「お、晩飯か? なんか地味だなー」
「…………」
「肉もあるが、豚肉か」
「…………」
「確かに牛肉よかヘルシーだよな。お、さてはダイエットか? 応援するぜ」
「外野は黙ってろ」
ざくり。
誤って指を切り落としそうになったのは、言うまでもない。
「ヤ○ザ的なアレになったらどう落とし前つけてくれるんですか」
刺々しく言うも、奴は気にしないとでも言いたげに優しく笑うだけだった。……なんだ、その兄貴みたいな顔は。
「その言い回し、本物みたいでなかなか悪くないな」
「悪党に悪党呼ばわりされても嬉しくありません」
寧ろヘドが出ますとは恐ろしくて言えず、代わりに夕食であるナスのしょうが焼きを乗せたプレートをダン!とテーブルに叩きつける。
……落ち着け、私。美味しく食べないと、せっかく丹精込めて磨き上げた私の野菜ちゃん達が泣いてしまう。
「はぁ……いただきます」
「――おい、なァ、おれには?」
この悪党幽霊がいきなり私の家に上がり込んでから、一日。まさに私はこいつにとり憑かれていると言っても過言ではない。
海賊の霊ならどこか海の上か海底をさ迷ってくれと追い出そうにも、何故か私の家から出ようとすると見えない壁に弾かれてしまうらしいのだ。家の壁なら、どこでも勝手にすり抜けるくせに。
「霊なら霊らしく、生身の人間に話しかけないで下さい。食事を要求するなんてもってのほかです」
目は絶対に合わせないと決めた。視線がかち合ったが最期、冥界へ引きずり込まれるに決まってる。
「霊らしくってお前……もうちょっと死者に対する労りってやつはねェのか? 死者はみんな仏様、なんだろ?」
「だからお墓だって作ってやったじゃないですか」
「墓? 小さく盛った土にその辺にあった枝切れをぶっ刺しただけの、弔う気ゼロのアレか?虫じゃねェんだから――」
「何か問題でも?」
「ございません」
海賊相手に供養までしたというのに、何という有難みと社交辞令の分からない、口の減らない死人だろうか。死人に口無しとは誰が言ったのか知らないが、そうではないこの現実には頭を抱えるほかない。
墓さえ作ってやればもしかしたらという淡い期待と、それを覆うような「さもなくば永住される」という恐怖に背を押され、勢いよく家を出た私に、奴はあっさりと着いてきやがったのだ。――いや、憑いて、か。
つまりは、私の行動範囲内ならば弾かれることはない、と。
そして結果、奴は成仏せず。
こんな悪党が背後霊とか泣ける。守護もクソもあったもんじゃない。
というか何で私なんだ。縁もゆかりもない私の元へ、なぜ奴は来たのか。これは来世で幸せに生きるために今の私に下された、神からのミッションなのか。私であるかも分からない来世のために、私は今の私を犠牲にしたくない。
それでも、あまりに下手な態度を取れば守護の代わりに呪詛でも仕掛けられるかもしれない。
「……貴方のご飯は出す意味がないので出せませんが、あっち(お墓)にお供えしときました。それで満足して下さい」
「お供え? ――あぁ、知ってるさ。枯葉一枚、だろ」
「え」
「見てたっつの」
「え」
「おれ、ベジタリアンじゃねェからな」
その笑顔が何を意味してるのか。怖い、怖すぎる。殺される。
ガタガタ震え出す手を、スプーンを握りしめることで何とか鎮め、私は奴から顔を背けて問い掛けた。
「……呪いとか、かけるんでしょう」
「……は?」
「このゴミ屑が、おれへの献上品に葉っぱ一枚とかふざけんな呪い殺す、とか」
「ちょ、待て待て待て、落ち着け」
わたわたとテンガロンハットを直す目の前の男。
「お前のイメージのおれって、どんなだ?」
「…………」
「正直に言ってくれ」
「……卑劣、下劣、愚劣な海賊の中でも群を抜いて最悪な海賊王の息子で、それと同等なくらい最低な一味の隊長」
「本当に一言一句全てが正直だな」
「手厳しい」、そう言いながらもやたら嬉しそうにニヤニヤと口元を緩めるこいつには、一切の罪悪感もないのだと分かる。どれだけの罪を犯したか知りたくもないが、海賊なんて所詮は低俗な生き物だ。万死に値するくせに、この呑気さには怒りを通り越して呆れるしかない。
馬鹿は死んでも治らないとは誰が言ったのか知らないが、それはこの世の真理であるのは間違いない。死者を目の前にしてそう結論を踏んだ私は、心の中で力強く太鼓判を押した。
「まぁ、そうだろうな、当たり前か」
「…………」
「でも、生憎とおれはただの海賊だ。人を呪う方法なんざ知らないさ」
「でも、霊なら」
「霊っつっても、霊になった途端そんな珍技が身に付くわけでもないらしいぜ」
ともかく俺は、お前を呪い殺したりはしねェよ。
そう苦笑う奴は、嘘を言ってるようには思えなかった。いや、いやいやいや、騙されたらダメだ、私。こいつは極悪非道なのだから。
「しかし、こんな桃源郷みたいな秘境にまで俺の名が知れ渡ってるってのは、嬉しいもんだな」
ほらみたことか。人々を散々恐怖に怯えさせたくせに、ちっとも反省の色がないどころか、嬉しいのだとか宣いやがる。
「悪名ですけどね」
最大限に嫌味を言ってやったのに。
「あぁ、それがいいんだ」
――笑ったのだ。
まるで無垢な少年のように、キラキラと――見る者をはっと惹き付けるそれは、太陽と例えるには柔らかく感じて。そう、太陽ではなく、その光を反射して輝く穏やかな海。優しく引いては押し返すような、波。思わず息を呑む、波間の煌めき。
今、帽子の下の瞳がどんな色をしているのか――
って、何を考えてるんだ私は。慌ててフォークに視線を落としたが、わざとらしくなかったかと何故だか一方的に気まずさを覚えた。
「……海賊なんですよね」
「なんだ? 今更」
「いえ、何も」
そうだ、人種が違うのだ。悪名が嬉しいだなんて、何をして喜びとしているのか到底理解出来ない。
――だけど、あの笑顔。そこにある喜びはただ純粋な、普通の人のそれと同じように思えて。私はどこか腑に落ちないような……違和感を覚えた。
こいつは本当に、死んでいるのだろうか。
「お腹、」
「ん?」
カチャカチャとフォークで無駄にナスをかき混ぜながら、紡ぐ。
「……お腹、空くんですか」
言わんとしたことは伝わったようだ。彼がまた困ったように笑う、気配がした。……顔は見てないから、確かなことは分からないけど。
「――あぁ、気にすんなよ。あんなのは冗談だ」
肩を竦めてみせる彼の、鍛え上げられた腕の筋肉、笑う直前に鼻から抜ける息遣い、全てが生きて見える、聞こえる、感じるのに。それなのに、彼の時は止まっているだなんて。
「自業自得ではあるけど」
やっぱり、死者は労り、悼むべきなのかもしれない。死者は仏様なのだ。
悪人も善人も、きっと等しく。でなければ、霊になってさ迷うだなんてそんなもの、つらいだけだ。
「……明日、きちんと供養します」
「え?」
「だから、早く成仏して下さい」
豚肉を口に含む。まだキッチンに残してあるそれは明日の朝にと思っていたが、どうやら違う用途に使われるかもしれないと、私はため息を吐いた。