「なぁ、まさかお前の言う運動って、これか?」
「何か問題でも?」
「いや、」
うちから町まで、軽く小さな山を越えなくてはならなかった。獣道ではないとはいえ、整備されてるわけでもない凸凹道は、山歩きに慣れてない者であれば足を取られかねないだろう。
――そんな道を自転車で駆け上がる私に、奴はさも意外といったようにちらりと目線を寄越した。
「いつも、ここを通るのか?」
「ここ以外に道があります?」
「毎日?」
「仕事があるもので」
淡々と返せば、感心したように「人は見かけによらないな」とふわふわ浮きながら宣う。畜生、こいつはこの坂道を紐で引っ張られる風船のように私の後ろを漂うだけでいいとは、なんつー御身分だ。まるで馬車で私がこいつを引いてるみたいじゃないか。納得いかない。
だが、こいつとおさらば出来るというならこんな坂道、苦でも何でもない。寧ろ天国への階段にすら感じるのだから、本当に物事というのは考え方一つで苦も楽も変わる。
「仕事してるのか? 昨日は家にずっといたろ」
「これだから曜日感覚のない海賊は……昨日は日曜日です。町の殆どの店が閉まってますよ」
「日曜なんて稼ぎ時だろ」
「田舎ですから」
ぴしゃりと会話を終わらせるも、奴は私の目の前に回り込むと、どこか考え込んだように俯き、ぽつりと言った。
「ここは、海のどこなんだ?」
世界のどこ、ではなく、海のどこと聞く辺りがいかにも海賊らしくてドキリとする。
そうだ。呪えなくても、何の役にも立たない木偶の坊でも。こいつが生前、海賊であったことは忘れてはならない。
それでも、まるで迷子になった子どものように頼りなく尋ねる奴に、少しだけ同情してしまう。
「……グランドラインですよ。グランドラインにある、小さな島」
「そうか」
少しだけ息を吐いて静かになる奴を、そっと仰ぎ見る。何かを懐かしむように遠くを見るその目を隠すように、奴はテンガロンハットを深く被った。
「――おれも、ここに来たのかもな」
「……そうかもしれないですね」
死んでしまえばそれで終わりと思っていた。きっとこいつも、私も。霊になって過去を辿るその心境なんて、しかも私には想像も出来ない波乱に満ちたであろう人生を振り返る奴に、かけるべき言葉なんて見つけようもない。
その中で、奴はここに決して来たことがないのは断言できた。今から行く町を含め、この山側は船たちがログのために立ち寄る漁港から、馬の足でも軽く半日以上かかる場所にある。そんな所までわざわざ足を運ぶ海賊なんて、見たことも聞いたこともなかったから。
私はやたら口数が減った奴に居心地が悪くなって、自転車を漕ぐスピードを上げた。
「へぇ、これが町か。随分と、まー、和やかな町で?」
「無理に誉めなくてもいいです」
石畳の上にタイヤを滑らせる。馬車が三台くらいは横並びになれる平坦な中央道の両側には、煉瓦調の家が立ち並んでいる。草木や花花が隙間から顔を覗かせ、町人たちはいつもと同じように水やりをしていた。
そう、景色は変わらない。
「さすがに海は、見えないんだな」
平常と変わらないといえば。
「ここからだと、海岸までどれくらいなんだ?」
「…………」
「おい、どうしたんだよ」
話しかけてくるこいつの姿は、どうやら誰の目にも止まらないらしい。奴が喋ろうが何だろうが誰も反応しないところを見ると、奴を認識出来るのは今のところ私だけということになる。
がっくりと来るような、バレずにほっとしているような、微妙なところだ。そもそも私は別に悪いことをしているわけでもないのに、悪人を匿っているかのようなこの謂れのない緊張感は何だろうか。
「なぁって」
そんな私の可哀想な心境に比べ、こいつと来たら……五月蝿い。なんて能天気なんだ。私がここで返事をしてみろ、端から見れば独り言を言う不審者じゃないか。
「あ、そういえば」
まだ喋るか。
「お前、いつになったら名前教えてくれるんだ?」
「……はぁ」
既に何度目かのやりとりだ、答えるまでもない。
「必要がないから」
こいつの姿、声が私にしか届かないと分かった今、更に必要がないのは明白。
何度目かの同じ回答を返す。納得いってないようだが、こちらだって何が嬉しくて悪党に名前を売らねばならない。
「……お前は、見ず知らずの野郎にお前と言われ続けてもいいのか」
「は?」
思わず聞き返してしまったが、慌てて口をつぐむ。
「……まぁいいさ。いずれ分かることだろ」
そう言って、何も喋らなくなる奴の妙な言葉が、引っかかる。私がいいのかって? なぜそんなことをこいつが気にするのか。名前を知られる方がよっぽどか嫌だし、不快だ。
「……いずれなんて、来ませんよ」
まるで諭すように言われた言葉に、違和感。再び悪くなる居心地が我慢ならず、スピードを上げた時だった。
「あ、ナエマ!」
誰だ早速呼んでくれやがったのはー!
キキィ! とブレーキを握り、声の方を振り返る。標的を捕らえるよりも前、視界に映り込んできた奴はまたニヤニヤと笑っていた。畜生、とんだ誤算だ!
「思ったより、いずれが早く来たなァ」
「うるっさい!」
「――え? ナエマ?」
反射で怒鳴り返してしまった奴に急いで背を向け声の方に振り向くと、見知った顔が蒼白な顔色でそこに立ち尽くしていた。
「――あ、エド?」
「な、なんか俺、話しかけちゃいけない感じだったか? ……急いでる?」
「――っ全っ然! 全然。そんなことないよ!」
自転車から降りてエドと向かい合うも、後ろで爆笑している馬鹿海賊に腹が立ちすぎて、眉間に寄るシワを隠せない。
「でもお前、顔が剣呑としてるぞ」
「あー、あれよ、ここまで一気に自転車で来たから、疲れちゃって」
「そっか。ご苦労様。今から仕事?」
どうやら誤魔化せたらしい。優しい優しい幼なじみに、心の中でごめんと手を合わせた。
「ううん、今日は休むってさっき伝書鳩飛ばしたの」
「へぇ、珍しいな。それなのに町まで来るだなんて、なんかあるのか?」
「まぁ、ちょっと、ね」
後ろの海賊を弔いに、などとは口が裂けても言えない。代わりに何か用かとはぐらかせば、エドは本当に私に用があったらしく、「あぁ」と袋を投げて寄越した。
「え、これ」
「うちで採れたブドウだよ。今年のはいい出来だから、ナエマにやろうと思って」
言われ、箱詰めされたそれに私は目を見開いた。
「え? い、いいよいいよ! だってエドんちのでしょ? 凄く高級なのに!」
「だから、内緒。な?」
ニッとはにかむ目の前の幼なじみ。エドの家業はブドウ園で、彼の家のブドウは島から遠い貴族にまで仕入れがされるほどの有名な一品であり、この島の大事な特産品だ。
それをただでもらうわけにはいかない。
「でも!」
「はは、そこまで言うんなら、今度飯でも付き合ってよ。最近親父にこき使われてばっかで、愚痴り足りない」
朗らかに笑う、ちょっと浅黒く焼けた端正な顔。狙ってる町の女の子もそりゃ多いわけだと頷ける。
どうしようかと迷っていると、屋内から聞き覚えのある声が彼の名を呼んだ。
「うわ、親父だ。サボってるのバレたかな」
「え、ちょっと」
「じゃ、そゆことで。ナエマ、必ずな!」
爽やに駆け去るその背中を呆然と見送ると、横からひょこっと奴が顔を出した。
「くく、青春ってやつか」
「はぁ?」
「はぁってお前、ありゃデートのお誘いだろ。何だ、男の気がないから心配したが……やっぱ年頃だったんだな」
「馬鹿みたい。なによ心配って」
うんざりと自転車にまたがり、返事も聞かずに走り出す。そんな私に何を言うでもなく、奴はただ小さく笑った。でも、次に覗かせた表情には、笑みが消えていた。
「そりゃあな、あんな辺鄙な場所に年頃の女一人だなんて、何があってもおかしくない。危ないだろう。心配して当然だ」
その声色が、あまりにも真剣で。私の中でまた違和感がぞわぞわと駆け上がり、息が苦しくなった。
「……そんな台詞、海賊には似合いませんよ」
「まぁ、確かにな」
笑い声。その表情をなぜか見てはいけない気がして、私は何も言わずにただ自転車を進めた。