「おい、さっき貰ったぶどう、ワインにしたら美味そうじゃねェか?」
「…………」
「つっても房が足らないか。あの野郎も惚れた女ならワインの一本くらい寄越せって、なぁ?」
「…………」
「……お、あそこに貼ってあるのって――」
役目を終えようとしている太陽が、西へ傾き始めた。石畳の表面をうっすらと覆う夕日色の絨毯。いつもならその景色をうっとりと見つめるのが私の定常だ。
それなのに。
「なァ、ちょっとあそこまで行こうぜ」
取り除こうとした非日常は、無情にも私に更なる苦しみをもたらしたのだった。
「……教会?」
「供養してもらうならプロの方がいいでしょう」
自転車を町の角に止め、広い野原に続く小道を行けば、その先にはこじんまりとした真っ白い教会がある。確実に私が生まれる前からある建物だけど、古いながらも綺麗に手入れされていて、周りにはたくさんの緑と一緒にブルーベルが儚げに、淡く揺れていた。妖精がいても驚かないここは、まるで童話に出てくる一枚絵だ。
幼い頃はよくここら辺で遊んだな、と懐かしさを踏み締めながらさくさくと小道を歩く私の横で、奴は物珍しそうな顔で辺りを見回していた。
「なんか、いいとこだな。物語に入り込んだみたいだ」
まるで自分が考えていたことと同じことを口にするもんだから、私は少しだけムキになってしまい、「こんなもんでしょう」と素っ気なく言うに終わった。
しかしそんな私の冷たさもどこ吹く風といったように、奴はニヤリと、まるでいたずらっ子のように笑った。
「ま、やっぱ海の物語のがおれには性に合ってるぜ」
秋の突き抜けるほどに高い青空を背景にした奴は、どこまでも爽やかで。海賊なんかでなければきっと、そしてその背中の刺青さえなければもっと、胸を打つ一枚絵になりそうなものなのに。
……バカな思考だ。
「すみません」
重い扉を力一杯に押して声をかけると、懺悔室が開く音がした。中から出てきた見知った顔の神父は、記憶よりもかなり老け込んでいた。だが、ダークブラウンの優しい瞳は、変わらないままだ。
「……おや、これは珍しい方がお見えだ」
「はい、お久しぶりです、神父さん」
「お久しぶり、ナエマさん」
――またここでも名前を呼ばれた。ちらりと奴を見れば、予想通りの顔をしているではないか。……どうせ考え無しですよ。
「今日はどういったご用で?」
「あ、はい。実は供養してもらいたい人がいるんですけど」
そう伝えると、どこか訝ったように神父の瞳に影が出来る。
――当たり前だ、こんな田舎で誰か死のうものなら町中の噂になって大人数の参列者を迎えることになる。
「あ、えっと、正確にはもうだいぶ前にこの世にいない人なんですけど」
「町の人ではなさそうですね」
「はい」
それ以上は聞く必要なしと判断したのか、神父さんは黙ったまま引き出しから紙とペンを取り出した。何に使うのだろうか。
「では、ここにその方のご氏名を」
「え」
ご氏名。
そうか、そりゃそうか。
神父にしろ坊さんにしろ神様にしろ、いるよなぁ名前。
――名前
「……分からないのですか」
「い、いえ」
「へェ、お前おれのフルネーム分かるのか」
横からチャチャを入れてくる奴は無視……というわけにもいかない。こいつを弔うために来た。早く済ませて帰りたいが、かといって極悪人の供養をするだなんて、天地がひっくり返っても人に言うことなんて出来ない。いくら教会に秘密厳守の規則があったとしても、だ。
あぁもうほんとに、私は考え無しだ。
「…………」
「どーすんだよ」
迂闊だった。
「…………」
「…………」
仕方ない。腹を括るしかない。
私はふんと顔を上げると、ペン先にインクを浸したのだった。
「それなのに、成仏しないとか……あんな高い御払い料払ったのに」
神父にさえ祓えないだなんて、なんだかもうこの世の全てに裏切られたようで、こいつと町中で喋ろうが何だろうが構わないという気にさえなる。
「御払い言うな。それはお前がおれの名前誤魔化したからだろ? 誰だよ、ポチュギーズ・デースって」
「……なんか響きが良かったから」
「……それで成仏出来るんなら、してやりたかったよおれも」
呆れてこちらに視線を寄越す奴に背を向ける。もう今日はやけ酒だ。エドには悪いが、このカゴのブドウも本当にワインにしたくなるくらいに私は気落ちしていた。
「ていうかお前、おれの話聞いてたか?」
「聞いてましたよ。何の話です?」
「ナチュラルに聞き直すなコラ。だから、そこに寄りたいって」
そう言う奴が指差した先に目を凝らすと、至って普通の酒屋があるのみだった。
「……あなた、どーせお酒飲めない身体じゃないですか。どこまでアル中なんですか海賊って奴は」
「ちげェよ、そこの壁に貼ってあるの、手配書だろ?」
見に行こうぜ。
キラキラと光る笑顔――がそこにあるかと思って見上げたが、予想外にも何か――影を感じるものだったから、私はうんざりとしつつもそれを拒否できず、また無言で自転車を走らせた。ついでにお酒も買って帰ってやる。
何枚か貼られた手配書の前に自転車を止める。ここから店内の距離なら離れても構わないだろう。
「じゃあ、私は中入ってますから」
思う存分見ればいい。
そこに、あなたはいないけど。
私は返事も待たずに、店の暖簾をくぐった。