いつも通りの一日だった。鶏の鳴き声で起きて、3羽しかいない養鶏舎まで赴き、出来立ての卵を回収してエサをやる。卵を冷蔵庫にしまって、野菜たちに水やり。
定位置のジョウロと、瑞々しく光る野菜たち。これから着替えて、仕事だ。
そう、いつも通りの一日。
「今日は仕事、行きますから」
だが、こうして声をかける、いや、かけなくてはならない相手がいる生活は私にとって日常ではない。奴が現れてから、すっかり私のペースは乱されてばかりなんだけど。
「――聞いてますか?」
再度強く問えば、ゆっくりとテンガロンハットが揺れた。
「――あぁ、おれに聞いてるのか……」
「あなた以外に誰がいるんです」
昨日まで、それこそ教会からの帰りまではペラペラと必要なく喋りかけてくる野郎だったのに、昨晩からやけに大人しいのだ。
――まるでそう、初めて見た奴の、夢を見ている瞳のような。
常に視線をどこか一点に向けているようで、その実何も映してない、あれ。
「私は今から仕事に行きます。その前に着替えるんで、とりあえず中に入って下さい。いつも通りトイレ待機で」
「分かった」
……前なら、覗き防止のためにトイレへ連行しようものなら、「お前の裸なんか興味ねェよ」なんて笑ったくせに、今日のこの素直さは何だ。天変地異の前触れだろうか。それとも、ようやっと成仏してくれるのか。
「やけに、素直ですね」
「あぁ」
「…………」
「…………」
会話のキャッチボールも出来ないくらい、天に召し上げられかけてるのか。
――違う。
こいつは、今、悲しいのだ。
昨晩聞こえたすすり泣くような、嗚咽を堪えた苦しい涙声は、やはり夢ではなかったのだ。
そんなに自分の手配書がなくてショックだったのだろうか。死を再認識して、虚無感に襲われたのだろうか。悪名が嬉しいと高らかに笑う奴のことだから、それもある気がするが、でも。
何だかもっと、違うことのように感じて。それなら奴は、ただ苦笑いを浮かべて、済ましてしまうように思えて。
それでも私からそれを聞けるわけもなく、そもそも聞く必要が私にはない。それに、私に奴の何たるかなど分かる筈がなければ、またその心理など到底想像もつかない。
思考を閉じる。やめよう。いつもの服に着替えるため、私は重く閉じる扉を押すのだった。
「そういえば」
いつも通り店番をしていると、大量の古書を棚に仕舞う店主が背中越しに話しかけてきた。
「昨日は何かあったのかい?」
説教は垂れても、何かを詮索してくる人じゃないのに。断れない雰囲気に、私は手元の本にしおりを挟んだ。
「ええ、ちょっと教会に用があって」
「へぇ、珍しいこともあるものだな。お祈りか?」
「まぁ、そんなとこです」
義理とはいえ、なんだかんだで昔から面倒を見てもらってるここの店主には、嘘はつきたくなかった。
「弔いを、」
「え? 何だって?」
「とある人の、弔いを」
そう言えば、何を思ったのか店主は急に口を閉ざして作業を再開した。私も釣られて本の続きを開くが、また声がかかる。
「――いや、ナエマがエドといたっていうのを、ほら、あそこの向かいのマリーさんから聞いたものだから」
「エド?」
あぁ、なるほど。
わざわざ仕事を休んで男に会いに行ったと思われてたのか。いかにも噂好きらしい、マリーおばさんだ。きっと皮肉って色々とあることないこと尾ひれをつけて吹聴したに違いない。もう慣れはしたが、相変わらず笑わせてくれる。
「まぁ、確かに行きに声をかけられましたけど」
「やっぱりかい」
「でも世間話した程度で、すぐ別れましたよ」
ぶどうのことは臥せて――敢えて淡々と言うと、店主は困ったように軽く息を吐いた。
「別にそれが悪いって言うんじゃない」
「…………」
「寧ろ、僕はその話を聞いた時、ほっとしたんだ」
「……え?」
いつものお小言が始まるかと思いきや、そうでもなく。前向きな発言に吃驚するのは当然だろう。
「僕は、君にはきちんと幸せになってもらいたいんだ」
「…………」
「そのためには、君はここにいるべきじゃないかもしれないと、そう思わないこともなかったけど」
らしくもなく手を止め、らしくもない言葉を紡ぐその背中は、私の興味を完全に本から引き剥がした。
「けど、ここで幸せを見つけてくれるんなら、これ以上嬉しいことは、ないよ」
君のご両親もきっと、そう言う。
エドとは、そんなんじゃないのに。今までだって根も葉もない噂をたてられたけど、この人は興味を示したことも、ましてや庇ってくれたことなんてなかったのに。
「……マリーさんもおじさんも、早とちりですよ。彼の取巻きの中に私みたいのが入る隙なんて、ないですから」
「じゃあ、どうしてそんな浮かない顔してるんだい」
振り返る眼鏡の奥の、瞳。
嘘は、つきたくない。けれど、ここで「実は海賊の霊が元気なくて心配でー」などと言えるわけもない。心配だなんて、奴に対する恥ずかしい気まずさと、そして店主に対する申し訳なさを隠すように、私は特に会話を弾ませることもなく、「ちょっと疲れただけです」と話を切り上げ、また読書に耽った。
「ワインって、どーすれば出来るんです?」
「…………」
「もっと房もらってくれば……作り方、知ってるんでしたっけ?」
「…………」
仕事から戻る間も始終だんまりだったこいつ。別に落ち込まれようが何されようが勝手だが、いつだって暗い背中が常に視界の端に映り込むともなれば、不本意ではあるが隣人として不快感が募るのは致し方ないと言えるだろう。
私は自転車を納屋にしまい終わると、未だ来ない返事にいさんで振り返る。
「ちょっと、聞こえてますか」
「――……あぁ、聞こえてる、聞こえてる」
私の存在さえ今気付きましたみたいな顔しておきながら、よくもまぁいけしゃあしゃあと言えるものだ。自分の気配を色濃く私に伝えるくせ、こちらのことなんて見えていないらしい。
「だったら返事して下さいよ」
「……返事、な」
テンガロンハットを深々と被り、猫背になるその背中。刺青が生々しく彼の自嘲で歪む。
「――なぁ、おれは、何でここにいるんだろうな」
秋の冷たい星空に吸い込まれそうなほど、か細い声だった。
「おれは死んだんだ。死んだのに、どうして意識があるんだろう」
「……何を、今更」
「今更じゃない。ずっと考えてた。ここで目が覚めた、その時から」
何の感情も溢さない声色で、思いもしないことを打ち明けられる。言葉につまる私を暫く待ってから、奴は本題だとでも言うように大きく息をついた。
「あの町の手配書、海賊が少ないよな」
……なんて急な話題転換だ。それでも今ここで適当に返すのは奴にとって適当ではない気がして、私は慎重に言葉を選んだ。
「……この町を実際襲うのは山賊ですから。海賊の手配書は大物しかありません」
「白ひげもか?」
「え?」
ゆっくりと振り返る、奴。
背負う深い星空
重く響く虫の鳴き声
秋の夜の、冷たく渇いた風――
――ダメだ、目を合わせては、
「白ひげがないのは、何でだ」
かち合った瞳には、見たことのない深い色が漂う。
夜空よりも深い、闇。
逸らせない。
「白ひげ、は」
あぁ、メヲアワセテしまった。その瞳を、覗いてしまった。
これは冥界に連れていかれるな、と片隅で諦めながら、こいつは知らないのだと。自分の船長がどうなったのか、どうなってしまったのか、結末を知らずにいるのだと気付いた。
自分が死んだあと。
何も言えずに固まる私を笑うその姿は、見ている者が恐怖さえ感じるほどの、渇いた絶望の具現だった。
「……ははは、死んじまったのか」
「…………」
「あのオヤジが」
「…………」
「強ェオヤジが、誰よりも温かかったオヤジが」
「おれの、せいで」
あぁ、あんたのせいだよ。
死ぬべきだったんだよ。
あんたも、あの悪党も。
最期くらいは世のためになって、良かったね。
呪いも出来ない、私に何一つ危害を加えられない霊のこいつになら、何を言ってもどうってことないのに。
目の前のこいつが死んだ時も、白ひげが頭半分を無くして壮絶な最期を遂げた時も、周りの群衆と同じように拳を突き上げて喜んだというのに。
「オヤジ……っ!」
今こうして、膝をついて大地に泣き崩れるこの男は、誰だろうか。
ポートガス・D・エース。
あの画面越しに見た奴と、目の前の彼が同じだなんて、思えなかった。思いたくなかった。大切な人を失って泣くなんて、私たちと変わらない、普通の人間じゃないか。
何億光年、彼方から。私たちを見つめる星天井に、涙が一つ流れれば。
虫たちのレクイエムと。
そっと彼に寄り添う風。
この世界が彼のために泣いていたのを、私は確かにあの時、信じたのだ。