くあ、と盛大なあくびをそのまま、野菜に水をやる。すぐに横から吹き出す声がして、私はしまったと頭を叩いた。
 彼が来て、5日目。まだ慣れたわけではない。

「朝っぱらから、でけェあくびだな」
「…………」

 視界から消えてしまえば、そして何かに集中していれば、ふと彼のことを忘れてしまうこともある。それもこんな朝、まだ脳みそも起き掛けとなると拍車がかかるというもので。

「女としてどうなんだ、それは」
「あら、まだいたんですか」

 恥ずかしい場面を見られた悔しさから、いつも通り生意気に返すしか出来なかった。

「大体、ここは私の家であって、唯一気楽に過ごせる場所なんです。それを成仏も出来ない、未練がましい幽霊にとやかく言われる謂れはありません」
「ははは、そりゃまぁ、そうか」

 明るく笑う彼に、ホッとする。昨晩いくら楽しく思い出話に耽ったとはいえ、あれだけ深く泣いていたのだ。今日も沈んだ顔をされていたらどうしようかと思っていた。
 けれどそれも私の杞憂だったようだ。朝私が目覚めてから、彼はいつも通りの「彼」だ。
 ジョウロから水を出し終わり、水道の近くまで歩くと、座り込んでぼうっと後ろからこちらを見ていた彼が口を開いた。

「なぁ、何でこんな辺鄙な場所に住んでんだ、お前?」

 それは、純粋な質問なんだろう。いつかはされると思っていたから、私は用意してあった台詞をここぞとばかりに捲し立てた。

「親が用意してくれたのがここだったんですよ」
「その親は?」
「死にました」

 背を向けたまま言う。彼がどんな顔をしているかは分からないけれど、決してそれをニヤニヤと聞いているわけではないことは、確信している。海賊はゲス野郎だから、人の不幸話を嘲笑うかとも思うけど、彼はきっと違う。贔屓が過ぎる?

「……悪ィ」

 聞かない方が良かったか、と掠れた声を出す彼に、やっぱりと私は笑みを溢した。
 彼が気にするほど、この境遇を悲観しているわけではないんだ、私は。だから、振り返って笑うのは、強がりでも何でもない。

「まぁ、顔も覚えてないんで、大したダメージはありませんよ」
「……そんなガキの頃に死別したのか? じゃあ、どうやって今まで一人で生きてきたんだ」

 明るいトーンの私と対照的な声色で尋ねる彼に、今度は私が吹き出す番だ。

「海賊のくせに、何心配してくれてるんですか」
「なんだよ、悪ィか」
「いえ、別に」

 ガタイのいい身体におどろおどろしい刺青を入れた男が、不貞腐れる。その素直な様子はまるで子どもで、今度こそ私は声をあげて笑った。

「ふふ、ご飯にしますね」
「……やっとだな」

 静かに息をついた彼にまた笑い、私はドアノブを捻る。

「別にあなたに用意はしませんよー」
「違う。やっと笑った、お前」

 ガチャリと、その音だけがやたら響いて。

「良かった」

 笑っているであろう後ろの顔を、私は直視出来なかった。

「……これだから、海賊は」
「は? なんだよ」
「別に!」
「急に何なんだ? おれ何かしたか!?」

 女をタラシ込むのが上手いと、思っただけだ。


 仕事も終わった帰り道、「たまには牛肉も食えよ」と横やりを入れてくる彼を無視し、いつもの馴染みの肉屋で豚肉を選んでいた私の肩に、急に手が置かれびくりと跳ねる。まさか彼が私に触れられるわけがないと驚けば、見知った幼馴染みの顔があった。

「エド」
「よ。仕事帰り?」
「そう。エドは?」
「おれも今日の分の作業は終了」
「そっか、お疲れ」
「おう、お疲れ」

 何故だか、エドと話すのが気まずい。エドにしてみれば、後ろで今度こそニヤニヤとこちらを見ている彼なんか見えるわけもないから、何も変わらない、いつも通りの風景に映るんだろうけど、私は秘密を覗かれたような、妙な緊張を覚えた。いつもならその真っ直ぐな目を見つめることが出来るのに、何故だか目を合わせられない。母親の遣いだと牛肉を買うエドから少しだけ間を開いて、肉を選ぶふりをする。親に交際がバレたと騒ぐ町の女の子たちの気持ちが、少しだけ分かった気がした。
 ……もっとも、エドとは何でもないけど。

「そういえばナエマ、収穫祭の日はどうするんだ? 仕事は休みだろ?」
「……え? あれ、いつだったっけ」
「さすが、らしいよな、ナエマは。時間に縛られてないっていうか」
「あのねぇ」
「はは、あさってだよ、あさって。今度の金曜日」

 言われ、私は思い出したと手を叩いた。収穫祭は、毎年秋になるとあるお祭りだ。小さな町のここの住人たちは、基本的に祭日には仕事を休み、店を閉めることが多い。私の働く古書店も、例外ではなかった。

「特に予定はなかったかな」
「そっか、良かった」
「なにが?」
「こないだ飯でもって言ってただろ? その日の夜、どうかなって」
「――え?」

 今度こそ顔をあげると、エドはどこか困ったように笑う。

「もしかして、忘れてた?」
「あ、や、そう言うんじゃなくて……冗談かと」
「何で、俺が冗談言う必要があるの?」

 じっとこちらを覗く瞳に、息が止まった。
 その奥にちらつくテンガロンハットのまた更に奥、その瞳が、優しく弓形にしなる。

 行け――

 そう、口が動いた気がして。
 私は何を思ってか、約束してしまったのだ。


「良かったじゃねェか」
「……なにがです」
「男とメシ。しかもなかなかいい面構えだ」

 ニッと口端を上げ、「ま、おれには負けるけどな」と宣う彼をねめつけ、私は自転車を漕ぎながらため息を吐いた。

「やめとけば良かった……」
「は? 何でだよ。おれが見る限り、あの町にいる若い男ん中だとあいつがぶっちぎりだぜ」
「だからですよ」

 何だか漕ぐ力もなくなり、ペダルから足を放す。カラカラと慣性の力が消えかかると、サドルから降りた。

「……あなたにとっては理解出来ないかもしれませんが、田舎だと男女が二人でご飯に行くっていうだけで、噂の的なんですよ」
「それでなくても噂されてたもんな。けど別に、悪いことじゃないだろ」

 何故知ってるのか――そう言葉が口から飛び出る直前、あぁ、例の古書店の時に聞いていたのかと納得がいって、やっぱり勘違いされていると頭を抱える。
 だがそんな私の杞憂も知らず、彼はといえば楽しげに笑うばかりだ。

「年頃の女なら浮いた話の一つや二つ、がっちり掴んで周りに垂れ流してこい」
「……別に、エドとは何でも」
「何とかすればいいだろ」
「何で」
「何でってお前、好きじゃないのか、あのエドって奴」

 けろりと覗かれ――ドキンと胸が跳ねた。好き? 私が、エドを?
 確かに、嫌いなわけがない。大切な幼馴染みだ。ある意味、特別でもある。だけど。それをこの男に言われると、違うと否定したくなるのは、何でだ。

「あっちは絶対、お前に気があるだろ」
「…………」

 そう、それは何も今に分かったことではなくて。だからこそ今まで上手に交わしてきたのに、さっきのはやっぱり失態だったとため息をついた。

「……あなたのせいですよ」
「なんのことだよ」
「行け、なんて言うから」
「……嫌だったのか?」

 ばつが悪そうに、こちらを気にして伺うその真摯な真っ黒い瞳が、不安で揺れていた。やっぱりそんな顔は見たくなくて、慌てて私は自転車に乗り直した。

「嫌とかじゃなくて、ダメなんですよ」
「は? どーゆーことだ」
「そもそもあなた、その男女の食事についてくる気ですか」
「あ」

 申し訳なさそうにこちらを見やる彼に「成仏出来たらいいですけどね」と笑い、私は自転車に乗り直して家まで向かった。


 それから、夜中はまた、彼の話だ。彼はといえば何かと私とエドの話に持っていきたがったけど、なんとか誤魔化して海賊の馬鹿馬鹿しい話を聞き出した。

「あとは……あーそうだ、隊の男共で口説き落とした美人たちとホテルに行ったら、実は全員男だったとかな」
「ぶ! それ惨めすぎる!」
「だろ? ありゃあ犯罪だぜ。見た目普通に美人だったのによー」
「声で気付かなかったんですか」
「低く響くいい声だなと」
「ただのアホですね」

 くすくすと、今晩は灯りを点して団欒した。彼の表情は、あくまで穏やかに――けれどコロコロと鮮やかに移り変わって、話していて飽きなかった。私が何を言っても優しげに笑う口元に、私も調子に乗って皮肉混じりに笑い飛ばした。

「けどさすが海賊。美人と見ればすぐに連れ込むんですね」
「海賊だからじゃないぜ、男だからだ」
「どうだか」
「……けどおれ、つくづく霊になった先がお前で良かったよ」

 優しく微笑まれて、喉元が大きく膨らんだ。そのまま、息が止まる。

「だって、美人だったら悔しいだろ、手も出せないなんて」

 一気に萎んだ。

「寝顔とかも、お前たまに涎出てるし」
「うそ!」
「まぁ、それは嘘だけど」

 カラカラと笑う奴に我慢ならず、私はふうっ!と火を吹き消した。

「死にさらせ」

 あ、既に死んでるか。やっぱり早く成仏してもらいたいと、私はベッドに潜り込んだ。

「おやすみ」

 肩越しにかけられる、その笑い混じりの声が憎らしい。だけど、子守唄のように優しく心地良く響くのも事実で――

 さっきの屈辱からエドの誘いに乗ってやろうかと内心意気込んでいた私の心に、原因不明の戸惑いが芽生える。私は考えるまいと、かたく目を閉じたのだった。
5日目
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Si*Si*Ciao