この感情だけは大切にしてね



どうしようかなあ。

おはよう、おはようって挨拶をBGMに、ぼうっと黒板を眺めながら悩む。昨日の放課後、木葉が部活に向かった後のこと。立ち寄った部室に、お目当ての譜面はなかった。先生やOBに聞いてみたけれど、皆言うことは同じ。ごめん、持ってない。

こうなると楽器店へ行って部費で買うしかないのだけれど、一人で行くのは気が進まなかった。店員さんに話し掛けられるのは苦手だ。冷たくあしらうのは申し訳ないし、かと言って良い顔をすれば、どんどん話が長くなっていく。誰かついてきてくれないかなあ。



溜息を吐きながら視線を伏せた時、軽く肩を叩かれた。振り向いて、どきり。
「おはよ」と笑う木葉に、昨日の感覚がじわじわ蘇る。それでも平静を装って「おはよう木葉」って微笑み返した、のに。


「あれ、名前で呼んでくんねーの?」


少しだけ丸められた瞳に、私の目も丸くなる。冗談のつもりだったら悪いなあって、ちょっと遠慮した末の名字呼びだったのだけれど、どうやらお気に召さなかったらしい。

「呼んでいいの?」って確認したら、途端に口端を緩めて頷くのだから、心臓に悪い。これがギャップってやつなのか。ちょっと近寄りがたい雰囲気なのに、人懐っこいなんてずるい。ただ馴れ馴れしいだけじゃない、気遣いを伴った距離感に、もっと話してみたいって気持ちが膨れる。ああ、そうだ。


「秋紀さ」と、席に着いた彼の名前を呼ぶ。


「部活ない日ってある?」
「今日ねえけど?」
「え、今日?」
「ん。昨日の点検で不備が見つかって、夕方から補修工事すんだと。だから立ち入り禁止で休み」
「あ、そうなんだ。じゃあ、放課後空いてたりする?」
「今んところは。何?デートのお誘い?」
「で、っ……」


たぶん冗談。分かってはいるけれど、言葉に詰まった。まるで、そんなつもりじゃないって言ったら嘘になる私の心を見透かされたよう。

なんとなくの気恥ずかしさに俯けば、ごめんって木葉の声が直ぐに聞こえた。私の様子を見つつ「何か用事だった?」と聞き直してくれる優しさに、胸が鳴る。ふつふつ浮かぶこの感覚は、やっぱり昨日と同じ。芽生え始めた自覚にはまだ蓋をして、喉を震わせる。


「……合唱コンの譜面、見に行かなきゃで。もし良かったら、ついてきてくれませんかって、お誘いです」


顔に集まった熱を逃がしながら上目に窺った彼は、数秒固まった後、二つ返事で頷いてくれた。



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