私があまりに不思議そうな顔をしていたからか、こちらを向いたまま前の席へ座った木葉は、そう教えてくれた。
「ピアノやってんの?」
「今はやってないよ」
「あーね。昔習ってた感じか」
「うん」
「合唱コンさ、毎年弾いてんじゃん」
「よく知ってるね」
「あー…まあ、うん……」
さっきまでの勢いはどこへやら。木葉の視線が泳いでいって、ほんの少し俯きながら首裏を掻く。らしくないと言えるほど彼を知っているわけではないけれど、それでもそう思えるくらい落ち着きのない様子に首を傾げる。
降りたのは数秒の沈黙で、ちらりと戻ってきた視線が交わる。
やがて耐えきれなくなったのか、小さく声を漏らした彼は「木葉秋紀です」と、頷くように首からお辞儀をした。急に何、そんな畏まらなくてもいいよ、と笑ってしまったのは言うまでもない。
意外と話し下手なんだろうか。全然そんな風には見えないけれど、人が見かけによらないことは身をもって知ったばかりだ。
「なんで名前言ったの」
「や、なんか普通に話してくれてるけど、みょうじは俺のこと知らねえよなって思って」
「知ってるよ」
「あ、マジで?」
「バレー部レギュラーだし、同クラだし」
「マジか」
「まじまじ。でも下の名前は初めて知ったかも」
秋紀くんって言うんだね。夕陽に染まり始めた机に頬杖をつきながら微笑みかける。一瞬、木葉と私を隔てる空気が揺らいだような気がした。まっすぐ見つめる先の瞳がわずかに見開かれ、舞い込んできたのは涼やかな風。
木葉の表情が、ふ、と緩む。
「なんかいいな、それ」
「秋紀くん?」
「そう、それ。くんはいらねえけど」
男の子特有の笑い方をする木葉が照れくさそうに見えるのは、頬も耳も指先だって夕陽が赤く染めあげているせいかな。
いつの間にか教室には私達二人だけ。空間を彩る黄金色は暖かい。
一体なんなんだろう。ちょっとくすぐったいような、足元からふわふわ浮き立つような、胸がきゅっと締まるような、指先まで熱が広がっていくような、どれもこれも全部初めての不思議な感覚。とくとく速まってしまった鼓動が落ち着いてくれなくて、ただ木葉の名前が脳裏を巡る。
「……ねえ時間、大丈夫?」
「おー、結構いい時間。そろそろ行くわ」
「だよね。部活頑張って」
「サンキュ。また明日な」
「うん、また明日」
立ち上がった彼に、軽く手を振る。同じように片手をひらひらさせて応えてくれたその背中は、すぐに見えなくなった。それでも少しの間、扉から目が離せなかった。何とも形容しがたい余韻が色濃く残る中『秋紀』と、やっぱり彼の名前がこだました。