私がリクエストした曲をさらっと歌いこなす黒尾くんは、佐藤が言う以上に何を歌っても上手だった。特に緊張している様子はなく、音程をはずすこともなく、喉だって随分とこなれている。そもそもやっぱり声がいい。こんなの惚れるしかない。はあ好き。
心の中でうっとりしながら背凭れに体を沈めたその時、手元のスマートフォンが光った。視線を落とし、ついでに明るさも落として確認した画面には、一件の新着メッセージ。
『もうそろ抜けるわ。頑張れよ〜』
え。
一瞬のフリーズを乗り越え、待って待ってって思いながら顔を上げたけれど、送信者である佐藤がこちらを向くことはなかった。どころか、わざとらしくスマートフォンを耳に当てて出て行った挙句、丁度黒尾くんが歌い終わったタイミングで帰ってきて「ごめん!」と手を合わせた。仰々しく竦められた肩がなんとも憎らしい。
「スタ練入ってんの忘れててさー。ちょっと早めに出るわ」
「おー。気ぃ付けて」
「い、行ってらっしゃい……」
なんて百点満点な理由だろう。
千円札を残して出て行った佐藤の背中を見送りながら、そっと息を吐く。いくら後十五分とは言え、黒尾くんと二人っきりはいろいろやばい。
それでも前奏は待ってくれやしないもので。顔は引き攣っていないか、声はちゃんと出るか。上擦ったり、裏返ったり、震えたりしないか。心の準備を整えながら、とりあえずマイクを手にする。こんな時に限って片想いソングなんだから勘弁して欲しい。しかも佐藤が『お前歌えるよな』と勝手に入れたやつだ。
さてはあいつ謀ったなって恨めしく思いつつ、深呼吸を一つ。スイッチを入れて、また息を吸い込む。
片想いの楽しさや切なさ、愛しさ、苦しさ、そして儚さ。それら全部が詰まった歌詞を音符に乗せる。優しく淡い曲調は、だんだん泣き出してしまいそうな弱さを孕み、柔らかい春へと進んでいく。
とっても素敵なこの曲も、正直最初は苦手だった。どれだけ練習しても上手く響かないし、しっくりこない。でも黒尾くんに出会って、恋を知って、やっと違和感なくライブで歌えるくらいには成長した。まさか本人の前で披露するとは夢にも思わなかったけれど、気に入ってくれたら嬉しいなあ。なんなら、歌に込めているこの想いごと伝わってしまえばいいのに、なんて。
力を抜きながらビブラートをかけ、しっかり残した余韻。「あー……」って声をこぼした黒尾くんは、指先をくっつけた両手を口元に当てていた。次の曲は入っていなかった。
「何つーの……絶品?」
「ほんと?そんな上手い?」
「上手い。ちょー上手い」
「やった」
「ちょっと勘違いしそうなレベル」
「勘違い?」
「俺が片想いされてんのかなって」
ちらり。寄越された視線。
彼の言葉を理解するまで、それから熱がせり上がるまで、そんなに時間はかからなかった。