羽ペンを走らせる日々



 財布を片手に購買へと続く道を進みながら、背筋を伸ばす。心地いい夏の風が頬を撫でる。
 そういえば、この淡い想いが生まれた日も、こんな風にカラッと晴れていた。忘れもしない、去年の夏休みのこと。



 運動部と蝉の声、その合間にブラスバンドの音色が響くウォータークーラーのすぐ傍で、私は急激な眩暈に襲われた。どうやら早朝から続いている暑さと日射しに、すっかりやられてしまったらしい。
 ぐんと血圧が下がったような怠さに上から圧迫されて気持ち悪い。血の気が引いていくのがわかって暗転する視界。間もなく平衡感覚を失い、ぐらりと揺れた私の体を咄嗟に支えてくれたのが彼――岩泉くんだった。

 頭の中がぐわんぐわん揺れて、全く足に力が入らなくて、カラカラの喉も全然震えてくれない。「おい、大丈夫か」と、焦りを孕んだ声に何も返せない。
 そんな、一人で立つことさえままならない私に合わせてしゃがみ込み、しっかり片腕に抱えてくれた逞しい腕の安心感は、今でも鮮明に思い出せる。

 「どうしたの岩ちゃん」と聞こえた声は、たぶん及川くんで。きっと部活の休憩か準備の最中だろうのに「わりぃ、先行っててくれ」と即答した岩泉くんの声に迷いはなく。結局、お姫様抱っこで保健室まで連れて行ってくれた。
 運ばれている間の浮遊感とか、高い体温だとか、制汗剤と汗のにおいとか、「もうちょっとだからな」「頑張れよ」と励ましてくれる声が存外心配そうだとか。今にも飛びそうな意識の中、断片的に認識できたそれらすべてに、私の心は攫われたのだ。

 幸い軽い熱中症だったようで、水分を採りつつ安静にしていると回復した。外はすっかり夕陽に染まっていて、慌てて男子バレーボール部がいる第三体育館に向かう。邪魔にならないタイミングでこっそり岩泉くんを呼び、とにかくたくさんお礼と謝罪を伝えて、一度だけ名乗る。
 もちろん顔は熱いし心臓はうるさいし、ちらほら飛んでくる部員達からの視線も相俟って相当テンパっていたから、私が何を言っているのか、岩泉くんはほとんど分からなかったと思う。私もあまり覚えていない。それでも岩泉くんは「いや、全然、そんな」とか「無事でよかった」とか「気にすんな」とか、ぎこちないながらも始終優しかったと記憶している。



 あの日から、もうすぐ一年か。
 もし溶けてしまっても大丈夫そうなチョコレートを選びながら、感慨深く思う。時の流れは意外と早い。このままあっという間に冬が来て、雪解けとともに卒業する。ああ、その前に進路調査が待ってるな。

 おにぎりと一緒にお金を払って、賑わいだした購買を後にする。チョコレートの箱にビニール袋の持ち手をくるくる巻き付けて、猫の形をした付箋をペタリ。
 準備万端で靴箱へ向かう私の足は、いつも差し入れを持っていく時と同じく軽い。



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