発泡3秒前



 失礼します。心の中でそう手を合わせ、靴箱を開ける。そして差し入れを忍ばせたその瞬間、空気を真っすぐ裂いた声に心臓が跳ねた。

「見つけた」

 聞き覚えのある声だった。どこで聞いたって分かるくらい、何度も頭の中で繰り返した、ぶっきらぼうな低い声。
 顔を見なくたって分かるのに、自然と首は動いてしまう。誰もいないはずのそこには、確かに教室の窓から見ているだけだった、あの岩泉くんがいた。

 うそ、でしょう。


「あ、おい、待てって!」
「っ」


 ぱしっと腕を掴まれて、足が止まる。
 なんで逃げようとしたんだろうって後悔と、どうしようって焦りが混ざり合う。頭の中がぐちゃぐちゃで、ろくな言い訳が浮かばない。あの夏の日と同じ温もりが、触れられている皮膚からじわじわ広がっていく。どくどく早鐘を打つ心臓が、今にも破裂してしまいそう。

 振り向くことすらできない私に、きっと良い印象なんてないだろう。けれど、戸惑いを孕んだ彼の声は、たどたどしくも優しかった。


「その、ありがとな」
「……」
「くれてるだろ、そーいうの、いつも」
「……」
「猫の付箋……おまえだよな?」


 こくりと頷く。鼓動が鼓膜を支配している世界の中でも、岩泉くんの声は鮮明に聞き分けられるらしい。聞こえた小さな吐息は、安堵の色をしていた。

 おそるおそる向き合っておずおず顔を上げると、彼岩泉くんは瞠目した。


「みょうじ、だっけ」


 ねえ、うそでしょう。私のことなんかきっと覚えていないと思っていたのに、顔を見ただけで分かるだなんて。忘れずにいてくれたのかな。こんななんでもない私のこと、覚えてくれていたのかな。たった一度しか言わなかった名前まで、ちゃんと。


「……はい、みょうじです」
「よかった。あれからなんともねぇか?」
「うん。心配してくれてありがとう」


 言葉を象る声に乗せ、少しずつ熱を逃がしていく。大丈夫。緊張はしているけれど、鼓動はずいぶん落ち着いてきた。なのに今度は岩泉くんの視線が泳ぎ始めた。
 掴まれたままの腕は離されない。首裏を掻いて、ちょっとだけ顔を伏せる。そうして紡がれた彼の言葉に、また驚く。


「結構くれてんのは、その……あん時のお礼ってことか?」


 窺うようなその表情が照れくさそうに見えるのは、私の気のせいだろうか。
 そういえば今日は、どうして及川くんがいないのだろう。どうして皆でお昼ご飯を食べているはずのこの時間に、こんな所に一人でいるんだろう。
 偶然にしては、どう考えたって奇跡的過ぎやしないだろうか。

 頭の中で並べた事実のすぐ傍から、期待のこもった予想が顔を出す。

 もしかして、ちょっと気になって待ち伏せしていたんじゃないだろうか。もしそうなら今、このままの流れに任せて私の気持ちを伝えた方がきっとよくて、たぶん楽だ。仮に違ったとしても、今まで通り遠くから眺める日々に戻るだけ。
 どうせ元から、こうして話せるだなんて思ってもいなかったのだ。私と岩泉くんの関係は、そもそも始まっていないのだからマイナスへ傾く懸念もない。岩泉くんの時間を無駄にとってしまうこともない。


 拳を握る。ありったけの勇気を振り絞って、言葉を探して、喉はカラカラ。


「それもあるけど……それだけで、こんなこと一年も続けたりしないよ?」


 どくん、どくん。再び大きく鳴り始めた心音が、全身に響いて熱を呼ぶ。いい感じに伝わったかな。
 そう心配する暇もなく、けれど、しっかり三秒分固まった岩泉くんは耳まで赤くなっていった。



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