「見つけた」
聞き覚えのある声だった。どこで聞いたって分かるくらい、何度も頭の中で繰り返した、ぶっきらぼうな低い声。
顔を見なくたって分かるのに、自然と首は動いてしまう。誰もいないはずのそこには、確かに教室の窓から見ているだけだった、あの岩泉くんがいた。
うそ、でしょう。
「あ、おい、待てって!」
「っ」
ぱしっと腕を掴まれて、足が止まる。
なんで逃げようとしたんだろうって後悔と、どうしようって焦りが混ざり合う。頭の中がぐちゃぐちゃで、ろくな言い訳が浮かばない。あの夏の日と同じ温もりが、触れられている皮膚からじわじわ広がっていく。どくどく早鐘を打つ心臓が、今にも破裂してしまいそう。
振り向くことすらできない私に、きっと良い印象なんてないだろう。けれど、戸惑いを孕んだ彼の声は、たどたどしくも優しかった。
「その、ありがとな」
「……」
「くれてるだろ、そーいうの、いつも」
「……」
「猫の付箋……おまえだよな?」
こくりと頷く。鼓動が鼓膜を支配している世界の中でも、岩泉くんの声は鮮明に聞き分けられるらしい。聞こえた小さな吐息は、安堵の色をしていた。
おそるおそる向き合っておずおず顔を上げると、彼岩泉くんは瞠目した。
「みょうじ、だっけ」
ねえ、うそでしょう。私のことなんかきっと覚えていないと思っていたのに、顔を見ただけで分かるだなんて。忘れずにいてくれたのかな。こんななんでもない私のこと、覚えてくれていたのかな。たった一度しか言わなかった名前まで、ちゃんと。
「……はい、みょうじです」
「よかった。あれからなんともねぇか?」
「うん。心配してくれてありがとう」
言葉を象る声に乗せ、少しずつ熱を逃がしていく。大丈夫。緊張はしているけれど、鼓動はずいぶん落ち着いてきた。なのに今度は岩泉くんの視線が泳ぎ始めた。
掴まれたままの腕は離されない。首裏を掻いて、ちょっとだけ顔を伏せる。そうして紡がれた彼の言葉に、また驚く。
「結構くれてんのは、その……あん時のお礼ってことか?」
窺うようなその表情が照れくさそうに見えるのは、私の気のせいだろうか。
そういえば今日は、どうして及川くんがいないのだろう。どうして皆でお昼ご飯を食べているはずのこの時間に、こんな所に一人でいるんだろう。
偶然にしては、どう考えたって奇跡的過ぎやしないだろうか。
頭の中で並べた事実のすぐ傍から、期待のこもった予想が顔を出す。
もしかして、ちょっと気になって待ち伏せしていたんじゃないだろうか。もしそうなら今、このままの流れに任せて私の気持ちを伝えた方がきっとよくて、たぶん楽だ。仮に違ったとしても、今まで通り遠くから眺める日々に戻るだけ。
どうせ元から、こうして話せるだなんて思ってもいなかったのだ。私と岩泉くんの関係は、そもそも始まっていないのだからマイナスへ傾く懸念もない。岩泉くんの時間を無駄にとってしまうこともない。
拳を握る。ありったけの勇気を振り絞って、言葉を探して、喉はカラカラ。
「それもあるけど……それだけで、こんなこと一年も続けたりしないよ?」
どくん、どくん。再び大きく鳴り始めた心音が、全身に響いて熱を呼ぶ。いい感じに伝わったかな。
そう心配する暇もなく、けれど、しっかり三秒分固まった岩泉くんは耳まで赤くなっていった。