『じゃあ昼食べ終わったら部室前来て』
『待ってる』
果たして今まで、こんなに甘やかな強制があっただろうか。返事を欲しないたった二言が、何度も掻き消したはずの声で反芻される。鼓膜の奥のずっと奥。いつだって思い出せる場所に穏やかな低音は棲んでいた。狡い人。ひどい人。忘れられない人。私の心を食べる、たった一人。
「なまえ?」
可愛らしい声にハッとする。途端に流れ込んできた周囲の喧騒は賑やかな日常そのもの。向かい側に座ってお弁当を広げている彼女は、くりっとした大きな瞳を曇らせた。
「食欲ないの? ゼリーでも買ってこようか?」
「ううん、大丈夫」
「私には遠慮しないで欲しいんだけど」
「してないよ。ほんと何でもないの。ありがとね」
まだ何か言いた気な表情に微笑めば、彼女は閉口した。全然納得していないようだけれど、それでも入学当初からの付き合いなだけあって良く分かってくれている。追及するような真似はせず、どころか出来るだけ楽しい話題をと声を弾ませて、ただ食べ物を胃に詰め込むだけのスローペースな食事に付き合ってくれた。おかげで幾分か気は楽になった。本当、昔から彼女には感謝しか浮かばない。
じゃあちょっと呼ばれてるからって席をはずし、向かうは運動部の部室棟。コンクリート敷きの渡り廊下を進む内、踏み出す足が徐々に重くなる。
擦れ違う生徒達は皆楽しそうに見えた。ベンチで肩を寄せ合う彼女もグラウンドでキャッチボールを楽しむ彼も、皆が皆幸せそうで華々しい。誰かの隣には当たり前のように誰かがいて、私の隣にもたぶん誰かがいる。それが松川だったらいいのに、なんて。もう何年焦がれたか分からない今更を夢想する。
所詮叶わないことだ。幾ら願ったって、どんなに祈ったって、好きだと伝えたって。だって当の私ですら、松川の隣に立つ自分を上手く思い描けない。
自然と落ちた視界にはいつの間にか、踏み出せなくなった自分の爪先ばかりが映っていた。