まだ愛を知らない



 チャイムが鳴った。喧騒が戻った教室からぞろぞろ出て行く人、人、人。じゃあまた明日と片手を振りながら駆けて行った友人の背中が見えなくなる。
 私も部室に行かなきゃなあ。合唱曲の譜面があったか見ておかないと。

 机横のフックにかけてあるカバンを取ろうと身を屈め、ふと気づく。視界に現れた上履きが私に向かって止まった。
 瞬き二回分驚いて、おそるおそる視線を上げる。
黒いスラックスに銀色のバックル、白いワイシャツと青いネクタイ。明るい色の癖のない髪。木葉だった。
 眉を下げ、きゅっと口を引き結ぶその表情に、瞬きを三回追加する。


「さっきの、ごめん」
「え。何が?」
「何がって、伴奏。断れなかっただろ」
「あー……でも木葉のせいじゃないよ」
「いや俺のせいじゃん。完全に」


 本当はやりたくなかったんじゃねーの。まるで罪悪感を逃がすように短く息を吐いた木葉には、しょんぼり垂れ下がった耳と尻尾が見えるようだ。
 正直なところ、私の中の木葉のイメージは良くなかった。つるんでいる部活仲間はキラキラしているし、派手めな女の子達といるところもよく見掛ける。飄々としていてチャラくて軽そう。でも、思い違いだったな。


「気にしないで。元々誰もいなかったら立候補するつもりだったし、べつに嫌じゃないよ」


 そう。べつに伴奏者を務めることが嫌なわけじゃない。ただ、目立つことが得意じゃない。ピアノもあまり好きじゃないから、誰か弾ける人がいるなら任せたかっただけ。木葉が言わなくたって、たぶん私に声が掛かっていたと思う。しかたないことだって分かってる。


「ほんとごめん」
「大丈夫だって。私こそごめんね」
「なんでみょうじが謝んの」
「謝ってくれたから」
「えっと……?」
「木葉、何も悪くないのに謝ってくれたでしょ。だからおあいこにしようと思ったの」


 本当は、素直に謝ることが出来る良い子な木葉に対して勝手に悪いイメージを抱いていたお詫びを兼ねていたけれど、まあ知らなくていいことは言わないでおく。

 面食らったのだろう木葉は笑った。


「変わった奴だな」


 どうやら彼の中に巣食っていた罪悪感は払拭されたらしい。沈んでいた空気が浮上して、穏やかに凪いだ。



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