それがあなたのしあわせなら



「あんまり優しくしないでね」


静かに発せられたなまえの声は普段と変わりなく、けれど確かな硬度をもって俺の胸を刺した。

一瞬、何を言われているのか分からなかった。それくらい驚いた。雄英で初めて知り合った彼女とは、クラスメイトよりほんの半歩進んだ程度の良好な関係を保っている。少なくとも俺はそう感じていたし、迷惑でないならもう少し歩み寄ってみたいと、言動には常々神経を使っているつもりだ。

一体何がダメだったのか。何がいけなかったのか。雑用を押し付けられやすい彼女の手伝いを申し出たのはこれで三度目。素直に拒める筈の手が俺に対して、気持ちだけもらっとくね、と振られたことは一度もない。今日だってそう。『手伝おうか』『ありがと』。寄越された微笑みは、まるでいつも通りだった。だからこそ、自らの立ち位置を見誤った可能性も低い。やっぱりどれだけ思い返しても、我ながら程良い距離感だったと自負出来る。単なる気まぐれか、もっと別の理由があるのか。分からない。どうも人と自分を白線で区切る節があるなまえの心底など、容易に覗けたものではない。ただ今まで接してきた僅かな時間から、たった一つだけ弾き出せる答えがあった。

ゆっくりと。枯葉がひらひら舞い落ちるように伏せっていった瞳を見つめる。





「そうやって護ってんの?」


頭上から降ってきた声はいつも教室で聞くそれと変わりなく、例えば昨日の晩ご飯を尋ねるような軽やかさで、私の視線を拾い上げた。血色の悪い唇が動くと共に響く靴音。


「自分も、他人も」


一歩、二歩。私が見上げなくてもいいようにか、逃がさないためか。歩み寄ってきた人使は身を屈め、極自然に目を合わせた。普段より近しい距離。真っ直ぐ捕らえるような菫色が、ひどく珍しいと思う。

不思議と焦りは湧かなかった。鼓動だってうんと静か。心拍が乱れることもない。それは視界の殆どを占める彼が、妙に落ち着いて見えるからかもしれない。責めるでもなく、怒るでもなく、咎めるでもなく。ただ淡々と存在する。すぐそこから私を見ている。私だけを映している。

なんて勿体ないひと時だろう。その虹彩も水晶体も角膜も瞳孔も網膜さえ、こんな女がひとり占めしていいものではない。勿体なくて、申し訳ない。


「……」
「なまえ」


答えない私を穏やかな低音が呼ぶ。微々たる動揺も宿さない声は、否定も肯定も指し示してはくれないらしかった。まるで無機物。そのくせ、視界の端から浮上させた手のひらで私の片頬を包み、優しい温度をそうっと潜ませるのだから困ったものだ。

嫌じゃないから拒めない。振り払うなんてもっと出来ない。そもそも傷付けるような真似は極力避けたかった。彼の言う通り、護りたいだけ。どうしたって臆病な冷たい私を。そんな私から、温かな人使を。


「……良く見てるね」
「まあね」


息を吐くように口端で笑った彼は「俺もそこそこ自衛してきた側の人間だから」と、自嘲の入り混じった言葉をこぼした。そうやって、死んだ筈の私に容易く息を吹き込もうとする。否、彼にそんなつもりはないのかもしれない。ただ私が、心のどこかで蘇生を望んでいるだけかもしれない。馬鹿みたい。

頬を滑る人肌が心地よくて、この手に愛されてみたくて。温度が恋しいとか、ずっと触れていたいとか、触れられていたいとか。いっそこのまま包まることが出来たなら、どんなに安らかな明日が待っていただろう。なんて。

うるさいなあもう。


珍しく縋ろうとする自分自身を押しとどめ、随分と昔、不用品箱へ放ったナイフを慌てて探す。だって本当に、これ以上は苦しい。上手く逃げなければ、上手く躱さなければ、上手く流さなければ。

どうせ与えられないのだ。本当に欲しいものなど何一つ。今までそうだった。どれだけ頑張っても祈ってもずっと“特別”は訪れなかった。両親さえ、ありのままの私を必要としてくれなかった。もちろん人使がそうだとは言わない。でも、そうじゃないとも言い切れない。信じてあげられない。こんな女に好かれるなんて、そもそも可哀想。


―――ほら。僅か数瞬やって来ただけの希望ですら、濁った幽愁を置いていく。



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