ありふれた讃頌



なかば放心状態のまま、トントン拍子で話が進んだ一ヶ月後。無事にバイトを辞めることが出来た私は、晴れて必要とされる場所に身を置けることとなった。

まるで現実味の湧かない話だった。でも、抓った頬はちゃんと痛かった。


「……何してる」
「夢じゃないか確かめてる」
「……」


変な女、とでも思ったのだろう。組の若頭でありオーバーホールと名乗った彼は、訝しげに眉を寄せてから手元の書類へと視線を落とした。


ドラマや映画に出て来そうな邸宅は、入ってみれば迷路で何処もかしこも殺風景。「ここを使え」と通された部屋にさえ温かみはなく、必要最低限のベッドとローテーブル、それからクローゼットだけが寂しそうに腰を落ち着けていた。それに比べて、顔を上げなくなった彼は忙しそうだ。

左から右へ動く瞳を眺めながらベッドに座り、ぼうっと夢心地に浸る。オーバーホールは何も言わないまま、書類を捲っていた。


今日は黒いマスクなんだなあ。最初に見た鳥の嘴のようなペストマスクは、一体何の為に着けていたのか。一種のトレードマークのようなものなのか、何か仕掛けがあるのか。徐々に脳が動き始めたところで、す、と差し込まれた厚みのない低音へ遮断される。


「料理は出来ないのか」
「んー……出来ないことはないけど、得意じゃないかな」
「事務経験はあるようだな」
「まあ、経理以外なら」
「要領は?」
「……悪くはないかと」
「そうか」


一体何を尋ねられているのか戸惑ったけれど、どうやら捉え方も答え方も合っていたらしい。要領がいいかどうかなんて、そもそも本人に聞くものではない。他人からの評価よりも自己申告を重んじる人なのだろうか。彼の脳内はよく分からない。否、彼に限らず他人の考えなんて何も読み取れないのだから、これが普通なのか。余計なことを考えるのは悪い癖だった。下睫毛、長いなあ。

綺麗な目元を見上げながら「座らないの?」と声を掛ける。寄越されたのは無色透明な一瞥。私に対する嫌悪を感じられない視線は随分と久しぶりで、なんとなく嬉しかったけれど、顔には出さないまま口を噤んだ。



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