きみのいらないせかいにいうよ



不意に思い出す。

普通に産まれて、普通に育って、普通に生きていた私の日常が、呆気なく崩れたあの日。初めて人を傷付けてしまった、寒い寒い冬の日。英雄も警察も両親も、誰一人として助けてくれやしなかった午前二時。私を失意の底から引き上げてくれた人が、弔くんだったことを思い出す。




「出会えて良かったって、思ってるよ」
「は?」
「弔くんに」
「……今日は良く喋るな」
「嫌なら黙るけど」
「別に嫌とは言ってない」


振り向いた先の弔くんは、片膝を立ててグラスに口をつけながら、先程同様こちらを見ていた。彼なりの聞く態勢だ。それが嬉しくって、つい緩んでしまいそうな頬を隠すように、捻った首を戻す。


「自分さえどうでも良いって思う中で、弔くんだけはどうでも良くなくてね」
「へえ」
「だから、私の世界は弔くんとそれ以外で出来ていて、弔くん以外はどうでも良いの」


英雄がどうなろうと、敵連合がどうなろうと、世界がどうなろうと、私がどうなろうと――。


少し面倒な言い方をしてしまったからだろうか。暫くの間、声はなかった。沈黙が降りて、小型冷蔵庫の稼動音が空気を揺らす。

もしかしたら言葉の選択を誤ったかもしれない。そんな不安が過ぎったけれど、今更訂正しようとは思わなかった。大切だとか好きとか大事だとか。簡単かつ簡素に言い表す為には必要不可欠であろうそういった類の言葉は、あまりに稚拙で安っぽくて、不似合いなような気がしたのだ。


「じゃあその、唯一どうでも良くない俺をお前はどうしたいんだよ」
「え……?」
「あ? そういう話じゃないのか」


いつの間に隣へ来ていたのだろう。中指を少し浮かせた右手でグラスを持ったままの彼は、私と同じように床へ足をつけ、緩慢な動作で座り直した。どうやら、まだお喋りに付き合ってくれる気でいるらしい。

ちらりと寄越された視線に苛立った様子はなく、ぬるくなったコーヒーを飲みながら思考を巡らせる。常日頃から弔くんの役に立ちたいとは思っているけれど、弔くんをどうこうしようなんていうのは、考えたこともなかった。伝えるって難しい。どれだけ長い間言葉を選んだところで、きっと、この想いの半分も伝え切れやしない。



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