非常に不本意ながら当然の結果というか何というか。クソなまえの注文通り、出来上がったきつねうどんと白米が乗せられたトレイを持って席に着く。まあ、うどん自体は嫌いじゃない。先に取り皿へ好きなだけ取らせ「お揚げさんも欲しい」なんぞぬかした頭を一発叩いてから揚げも全部やって、漸く落ち着いたところで七味をぶっかけた。
さて。こいつは今、俺のおかげで二種類の飯に有り付けているわけだが、相変わらずの能面は微動だにしない。笑うどころか、ぴくりともしない口角は下がったまま。嬉しそうな顔の一つでもすればこっちも少しはマシな気分になろうかというのに、こいつの表情筋は本当どうなっているのか。感情が全く表に出ない人間などいるわけがない。アンドロイドでさえ笑うくらいは出来る。細胞が死滅しているのか、それとも他に理由があるのか。そう思うのは、これで何度目か。
小さな口にハムスターの如くオムライスを頬張っているあたり、美味しい物を食べている自覚はあるはずだが。
「それ美味いんか」
「?うん。美味しいよ」
ことり。首が傾けられ、黒い髪が流れる。
「うどんも美味しいし幸せ」と続ける割に、美味そうにも幸せそうにも感じられない。無そのものである表情はもちろんのこと、抑揚が薄く厚みもない声が助長しているように聞こえた。どんな環境で育ったらこうなるのかと七味を更に追加し、ほど良くなった辛さのうどんを咀嚼しながら逡巡する。
思えば、なまえについて知っていることなど何もなかった。家庭環境、家族構成、仲の良い連れの数、個性、好き嫌い、趣味、特技。まあ、俺にとっては死ぬほどどうでもいいことばかりだ。だから今まで尋ねもしなかった。ただ、聞いてみようかと思う瞬間は何度もあった。おそらく、ある種本能とでも呼べるような感覚的部分が、心の内はおろか行動さえ読めないなまえを“得体の知れない何か”であると、警鐘を鳴らしていたからだろうと思う。
実際、ふわふわしていて掴みどころがない女であることは事実だった。指の隙間からサラサラこぼれ落ちていく砂のような女。決して弱くはなく、他者に流されることもなく、脆くもなく、ひねくれていもせず。俺の所へは自らほいほい寄ってくるくせに、気付けばいると思っていた場所から消えていたりする。例えるなら、自由そのものといったところか。随分と勝手な奴だと思うが、その実、自分の基準や我儘を押し付けることはしなかった。
今回だってそうだ。
仮に俺が来なかったところで、アホ面やクソ髪が言っていたように一生待っていることもなければ、後々文句を言いに来ることもきっとなかった。ただ平然とした顔で用もないのに会いに来て、適当に喋って、適当に帰る。
いつだったか薄っぺらい胸ぐらを掴み上げ、良く回る鬱陶しい口に噛み付いてやった時もそうだった。もう一生近付いて来ないか、あるいは酷いだなんだと騒ぎ立てるだろうと思っていた俺の予想をものの見事に両断し、まるで何事もなかったかのように『おはよ、かっちゃん』と挨拶してきやがった。
人の話は聞かない。影響を受けない。全部自分の思う通りに動き、従い、話し。誰が応じようとなかろうと気にしない。あいつにとって、そんなものは重要ではないのだろう。それは全てに興味がないようにも、全てに期待をしていないようにも見えた。
だからこんなにも、心臓の内っ側がざわつくのか。チリチリと燻されているような感覚が、どうにも落ち着かない。
「ごちそうさまでした」
ぱちん、と合わさった手。モブ共の声が溢れている食堂でさえ、なまえの音は、何であろうと良く響く。
「満足かよ」
「うん。有難うかっちゃん」
「その呼び方やめろっつってんだろ殺すぞ」
苛立ちよりも半ば呆れが勝るようになったあたり、俺も随分このクソに毒されてきたのか、なんて思いかけてやめる。そんな胸くそ悪いこと、あってたまるか。
最後のうどんを嚥下し、水を飲み干す。そろそろ行くかと腰を浮かせたところで真っ直ぐ鼓膜を突いたのは、俺の名前。
「勝己」
驚きに声も出ないまま。再度呼ばれたそれに、顔を上げる。
ゆったりと。ほんの少し細められた淡い瞳が笑っているように見えたのは、初めてだった。