やわらかい発作

正直、次に目覚めた時、もう居ないだろうと思っていた。だって美味しい料理も金もなく、来客用の布団もない。ただ煮ても焼いても食えない家主が、体調不良で寝ているだけ。天気予報が晴れの今日、彼にとっての利点なんてゼロより低い。明け方は時間的に出辛くとも、朝になって街が動けば自ずと姿を消すだろう。そう思っていた。寝ぼけ眼の不鮮明な視界の端で、黒い影が動くまでは。



見慣れた壁紙、見慣れたテレビ、見慣れたペットボトルに見慣れたローテーブル。何もかもがいつも通りな現実で幻みたいな彼は依然、自分の腕とクッションを枕に眠っていた。なんでって言葉は音にならず、張り付いた喉奥で逆流する。

ねえ嘘でしょ? どうして居るの? って困惑するばかりの脳内が、無数の“なんで”で埋め尽くされる。当然寝起き状態で答えが探せるわけもなく、無理やり振り切っては体を起こした。刹那、襲った眩暈に静止する。驚きのあまり忘れていたけれど、まだまだしっかり駄目らしい。全く面倒な体。悪態をつきながら脈打つこめかみを強く押さえ、痛みが過ぎ去るその瞬間をじっと待つ。秒針音。穏やかな寝息。鳥の鳴き声。衣擦れ。大きな猫背が再び身じろぎ、それから落ち着く。起きる気配はない。私が彼に対して無警戒であるように、彼も私に対する警戒心ってものはないらしい。

見遣った時計は、午後一時を過ぎていた。


「……しんど」


吐息混じりに小さくぼやき、取り敢えず薬を飲もうと立ち上がる。その前にお腹へ何か入れないと……ああでも、そしたら吐いてしまうかな。いっそ吐いた方が楽になるか。

未だ尾を引く頭痛を連れて立ったキッチンには、食器と鍋が伏せっていた。私じゃない。あの男――甚爾と名乗った彼だろう。残り物のカレーを食べてわざわざ洗った上、ご丁寧に米まで炊いてくれたらしい。炊飯器の画面には保温の文字が光っていた。一体どういうつもりなのか。息苦しさを嚥下して、彼との会話を思い出す。居着く、と言っていたあれが、もしや本気だったりして。

飄々としたいかにも軽薄そうな笑みが浮かび、瞬くことで掻き消した。どうにも嫌だと思わないのは、きっとそういう感覚も麻痺しているからだと結論付けて、余計な思考は全部塞ぐ。そうして引き出し内の錠剤を流し込む。食べることは諦めた。お腹がすいているかどうかも良く分からず、ただ全身を覆う気怠さが辛かった。顔を洗って歯を磨く。ちょっと休憩して、手を伸ばしたのは洗濯カゴ。職場への欠勤連絡は、もう少し落ち着いてからにしよう。







くあ、と背後で大きな欠伸。甚爾が起きてきたのはゴトゴト頑張る洗濯機前へ座り込み、肩も頭も壁に預けて待っている時だった。


「動いて大丈夫なのか」
「うん」
「……」


近付いてきた足音が隣で止まる。空気が揺れてしゃがんだのだろうことがなんとなく分かったけれど、頭を動かすのも億劫だ。それでも「おい」って声に一応返事はした。したけれど、どうもそれが彼の喉元に引っ掛かったらしい。


「名前」
「……」
「名前」
「……、?」


まるでこっちを向けと言わんばかり。繰り返された同じ音が自分の名前であると気付くまで、甚爾が私を呼んでいると理解するまで数秒要し、苦笑する。今まで誰かに下の名前で呼ばれたことなど、きっと面接や病院でのフルネーム数回くらい。

遅れて顔を上げれば、温かい手が待っていた。額を覆って体温比べ。熱がないことを確かめてから、するり。なだらかに下りゆく乾いた指。こめかみを伝って目尻をなぞり、「無理すんなって言っただろ」と、愛しい子どもを叱るような優しい言葉で容易く絡め取られた視線と唸る鼓動。


「……してないよ。大丈夫」
「んなとこに座り込んでる時点で説得力ねーよ」
「別に、悪化しないようにしてるだけ」
「あのな、使える男が居んだろここに」
「頼れってこと? 難しいかな」
「なんでだよ。簡単だろ。あれしてこれしてっつって無条件に許されんのが女だぞ」
「……」
「ん?」


促すような眼差しに口を噤む。返す言葉が浮かばなかった。女だからとか、男だからとか。そんな性別有りきの考え方は、当然に独りで生きてきて、きっとこれからも同じ轍を踏んでいく私の中に、そもそも息衝いていやしなかった。

何もかも、頼れるものは自分だけ。そういう環境で育ってきた。早く一人で生きれるようにならないと、あの可哀想な式神は主の元へ帰れなかった。義務教育も高校も社会も、他人行儀な世界は常に損得勘定で成り立っていて、与えることが出来ない私に何かが与えられる筈もなく、期待すらも烏滸がましくて気が引ける。たとえば今もそう。彼の優しさに見合う何かを、私はたったの少しも持っていない。せめて女優のような美女だったなら目の保養くらいにはなれただろうに、お生憎。


……さて、どう答えたもんか。


悩んでいる内、息をついた甚爾は「終わったら乾燥かけりゃいいんだな?」と、洗濯機を顎でしゃくった。普段は部屋干しだけれど、まあ下着が入っていることを考慮すると、その方がお互い気を遣わなくていいだろう。一つ返事で謝罪を述べる。ごめんね。返ってきたのは溜息と、なんともバツが悪そうに首裏を掻いた後の視線。


「ごめんはいらねぇ」
「じゃあ有難う」
「それもいらねぇ」
「……?」
「なんもいらねぇから、やってもらって当然くらいの顔してろ」


刹那、驚く間もなく体が浮いた。香る我が家の柔軟剤。がっしりとした男の腕にとても軽々抱えられ、ベッドの中へ戻される。起き抜けと似た戸惑いに、喉が詰まってなんにも言えない。慣れない全てに心の芯がぐらぐら揺らぎ、嫌な動悸が治まらない。


「財布と鍵、持ってくぞ」
「、え?」
「どうせこの家なんもねぇだろ。買いモン行ってくる」


言葉通り、私のカバンから財布と鍵を取った甚爾は「良い子で寝てろ」と口端で笑い、玄関口へと消えていった。開いた扉が静かに閉まり、鍵がかかる音がした。