明滅する心臓



 深縹を正面から見据えて、相澤は逡巡する。

この疑問を本当に口にしていいのか迷っていた。……聞かない方が、この食事は和やかに終わると確信していた。尋ねなければ相澤の中のみょうじは、これからも優等生のみょうじなまえであり続けることだろう。

相澤は迷って、それでも彼女に疑念をぶつけることに決めた。もう自分たちは"教師と生徒"ではない。"元教師と元生徒"だ。学校の時のように確実に会えると約束された明日はない。今夜の食事が最後になることだって当然ながらあり得たからだ。


「……ずっと考えていて、分からなかったことがある」


それは相澤の教師観を変容させた疑問符。彼女への理解を遠ざけ阻んだ、絶対的な拒絶とも取れる言葉。


「"ヒーローになる資格"とは、なんだ?」


進路希望調査を手に朴訥と呟いたミッドナイトの横顔を相澤は覚えている。それからあの不味い缶コーヒーの味と、意味がないと分かっていて脳味噌を占拠したifも。

個性や身体条件、ましてや本人の性格と言った素質ではなく、"資格"。あたかも有無を図る一定の水準や試験が存在し得るような物言いが、のどに刺さった小骨のように相澤にわだかまりを残していた。取り立てて問題にするには細やかで、それでいて無視を決め込むには大層な違和感。

やはりみょうじは、相澤が何を聞かんとしていたのかを察していたらしく、そっと唇の端を持ち上げる。深縹が草臥れた三白眼を真正面に捉える。


「……私は、命の重さを平等に見れないんです」


静かに、静かに言葉が落とされた。グラスに纏わりついた水滴が一筋の跡を残して机へと滴り落ちる。


「トロッコ問題を、覚えていらっしゃいますか」
「…………ああ」


教科書に描かれた、簡素なトロッコと棒人間が頭を過ぎる。助けるという明確な目的があるなら犠牲、いいや殺人は許されるのかという問答。これは風の吹きこむ教室で行われた問答でもある。あの日の風は嫌に湿気を孕んで生温い温度を運んできた。

もし、私が分岐器の前に立つ人間だったら。

みょうじがifを連ねていく。藍色と浅葱色の入り混じった瞳に迷いは見えない。


「全員見知らぬ人間なら、一を見捨てて五を選びます。人一人の命の重さはどちらも同じだから」


相澤は頷く。肯定も否定も含めない、ただ話の続きを促すためだけの相槌だ。彼女の細い指先がグラスに伸びて林檎酒が薄桃の唇を湿らせる。意図的な空白は彼女の躊躇の表れでもあり、事実みょうじは「でも」と逆説で論説を再開する。


「その一が、私の家族や恋人だったり、恩師だったら、後でどんなに批判を受けると分かっていても、私は必ず五を犠牲にしてしまうでしょう」


 命の重さ、即ち価値を測る万国共通の測りは存在しない。そして、価値を決められるのは人間だけだ。恐ろしいのはこの価値は人によって変動し、誰にとっても画一でないという事実。これが命と言う、人間が一つしか持てない不確定な価値の揺らぎを助長している。


「…………一は時に、五よりも重いから」


みょうじなまえにとって命の価値を増強させる要素は「家族」「恋人」「恩師」つまり自分との繋がりだった。……特段珍しい判断基準ではない。子供の代わりに自分を殺せと己を差し出す親がいるように、恋人を守るために死を迎え入れる者がいるように、将来を担う輝かしい命を存続させるために彼らを背に庇う教師がいるように。至って普通の、凡庸な価値観だ。

この価値観は尊重されるべき必然である。…… みょうじの生業としての職種がヒーローでなければ、だが。

上記の人物は常に「自分の命と誰かの命」を天秤にかけている。ただ、ヒーローは違う。この難儀な職種は「誰かの命と誰かの命」を天秤にかける必要が時として存在する。それは敵に取られた人質であったり、火災現場などの時間制限が伴う救助現場だったり。事件解決のために適応される優先順位は、残念ながらこの命の天秤の傾きによって決定付けられる。

そしてこの命の価値に関する論議は、当然ながら相澤にも例外なく適応されるのだ。


(こいつは、いつから天秤を掲げ始めたのだろう)


流暢に返答を紡げるはずもなく、相澤はゆっくりとビールを嚥下した。喉を滑り落ちる炭酸の刺激と舌に残る苦みが言葉を鈍らせる。彼が生んだ沈黙をみょうじがどう解釈したのかは分からない。彼女は机にできたグラスの痕を指先で弄んで、それから目を細めて笑う。はは、乾いた笑い声が漏れた。


「失望しましたか。本当は私、こういう人間なんです。ずっと、そんな自分を変えたくて、雄英でも頑張り続ければいつか、いつか変われるって、思ってたんですけど…………そう上手くは、いきませんよね」


 これまでも、そしてこれからも引き摺り続ける記憶。ケロイドで変色した兄を見るたびに胸を蝕む、あの、憎むべき! ……ちがう、ちがう。本当に憎むべきは、改心すべきは自分自身なのだとなまえは分かっていた。

罪を憎んで人を憎まず。

それを真に理解して自分の中に落とし込んで染み付かせるために、なまえはヒーローを目指し、雄英で数多の苦汁を舐めてきた。勉強すれば、現場に出て人を救えば。敵にもそうせざるを得なかった背景があって、ヒーローはそんな敵すら救って更生へ導ける存在だと、……"信じていたかった"。


「結局頑張っていたのは上っ面だけ。綺麗になろうとしたって心の根は変わらないんです。そんな自分が大嫌いなのに不思議と落ち着くなんて。笑っちゃいますよね」


でも、出来なかった。終ぞ信じることは出来なかった。

憧れの人は言った。


『被害者も加害者も等しく一人の人間だ。罪の重さに違いはあっても、命の重さは変わらない』
『結局、人一人の命の重さは一つ分でしかない。自分の掌の大きさをよく考えて、背負う数を決めるんだ』


なまえは、理解するのをやめた。
自分の考えを改めようとするのをやめた。

理解するという努力をやめる代わりにヒーローを、憧れを諦めることも決めた。そうするのが当然だと思った。実際に、五より重くて尊い一を捨てた人が『命の重さは変わらない』『背負う数を決めろ』と告げたから。

だからなまえは『命の重さは変わらないという真理を理解すること』と『背負う数を決めること』を諦めた。


「これが全部です。資格とは、どんな時も人の命を平等に扱える精神のこと。…………私には、それがなかった」


 みょうじなまえはこどもだった。

幼少に歪を抱え、それを必死に"たった一人のちから"で直そうとして、直せない現実に失望して全てを諦めてしまった。…………あまりに正しく生きすぎた、それゆえにひたむきに生き急いでしまった"こども"。


(……俺たちは、何を見ていたんだろうな)


誰に届くわけでもないと分かっていながら相澤は独り言ちた。こういう子供を、生徒を導くのが教師の真髄であり、教職の本義なのではないのか。周囲から貼られた天才と言うラベル分類……、いいやレッテルという他人からの評価に教師の目が眩んでいては元も子もない。

全てを吐き出して、なお柔く微笑むみょうじに今更何を言えばいいのか、相澤には分からなかった。謝罪だろうか、弁明だろうか。最適解が見つからないなら沈黙もまた一つの選択肢か、と陰影が胸に蔓延って、それを両手で払い落す。


「みょうじ」


 彼女の名前を形作る。髪の毛と同じ、干し草色の睫毛に縁取られた青い瞳が静かに閉ざされ、それから笑みが消え去る。どこまでも美しいその相貌は物悲しさを揺蕩わせていた。


「なら、お前が大切だって思う人間を見守ってきっちり助けてやればいいだろう」


相澤の確固たる声色で結ばれた文字の羅列が、俯きかけていたみょうじの鼓膜を穿つ。


「…………えっ、?」


諦めの滲んだ自嘲を纏う準備をしていた顔貌が驚きに満ちる。優等生たる彼女にぽかんと口を開けさせるような驚嘆を提供できたのは後にも先にも自分だけかもな、なんて麦酒で喉を潤した相澤は喉の奥で笑う。


「一人で全てが事足りるなら、この世にオールマイト以外のヒーローは必要ない。あんだけ一強だ、柱だと騒がれておきながら、俺みたいなアングラだって駆り出されてるのが何よりの証拠だ」


ヒーロー飽和社会を宣う輩も少なからずいる。何を持ってして飽和と定義するのか。……むしろ脅威を跳ね除けることを生業とするヒーローたちがあり余っているという現状はそれだけ世界が平和に近づいている証拠であり、喜ぶべき事実だろう。


「お前の言う通り、一人のヒーローで救える数なんてたかが知れてる。だから酷な選択も強いられる時もある。―――常に一人なら、な」


 ヒーローは超人じゃない。あくまで個性と言う授かり物を使って、人としての精一杯をこなしているだけ。この掌は全ての命を拾い上げるにはあまりに小さく、それでいて見つけた一つの命を見捨てるには大きすぎた。


「一人で十を救うのではなく、十人各々が一を救う。そうやって、世の中全てをヒーロー全員で救うんだよ。……お前がそれを許せない理由が、俺は逆に知りたいね」


ヒーローがあり余っているのなら、それぞれが背負う軛を、命の数を一緒に背負おう。一人では助けられないからみんなで助けるのではなく、一人でも助けられるからみんなで助ける。そうやって、命と言う輝き眩いものを拾い上げる掌を大きくし、そして取り溢すことのない受け皿を作っていくことこそが、これからの超常黎明期の社会に求められるヒーローの在り方ではないのか。

淡々と喋っているようで、思いのほか自分の声に熱が籠っている気がした。声色で真剣みを訴えるなんて非合理的だと思ったが、少しでも自分の言葉がみょうじの雁字搦めになった心を開かせる一打になれば、相澤はもう何でもよかった。


「みんなで、救う…………………………」


呆然とした、覚束ない呂律でみょうじが反芻する。彼はそれを静かに肯定した。丁寧にグロスの塗られた艶めく唇が開閉する。それから唾を飲み込む甲状軟骨の上下。間接照明がその動きに合わせて影を付けていく。


「私は、自分一人で全てを救えると、……救わなきゃいけないんだと思っていました」


 四歳で発現した、神様からの祝福に相応しい個性をこの身に授かった時から、ヒーローになるべきだと、もはや義務のように思ってきた。周りが手放しに誉めたからか、自分でそう暗示を掛けたのか。どちらなのかは覚えていないけれど、強迫観念に近い将来像に急き立てられて今まで生きてきた。


「私は、昔からずっと、万能感に満ち溢れた、そしてそれを捨て切ることのできないこども、だったんですね」


呪いに近い"一人で完結した万能たるヒーロー像"は、ヒーローを目指すうえでは避けて通ることのできない、あの絶対的な国民的ヒーローの姿を思い浮かべていたからかもしれない。憧れであるイレイザーヘッドとはまた違う、ヒーローの代名詞と言うべきオールマイトの存在。それはみょうじに呪縛に等しいヒーローへの固定観念を植え付けた。

ヒーローの現実を見つめる機会も、立ち止まって熟考する機会も、誰かにこの悩みを打ち明ける機会だってなまえはずっと与えられてきた。あの時は、意固地に拒否してしまったけれど、担任や副担任だって、これらのきっかけをなまえに差し出してくれていたのだ。


「……馬鹿だなぁ、私。もっと早く、気が付けていれば」


 その言葉の先を察して相澤は緩く頭を振る。決してみょうじだけの責任ではない。それに、今更過去を悔やんだところで時間が巻き戻るわけでもなければ、やり直しが利くわけでもない。

けれど、これからの歩む先を改めることはできる。

ヒーローが夢を奪ったなら、夢を与えるのもまたヒーローであるべきだ。幸いこうして、学生時代に押してやれなかった背中を再度光の差す方へ導く機会を、相澤は与えられている。

他者を愛し、共に生きることを信条として命を燃やす人間と言う生物が、ヒーローを目指す以上は受け入れざるを得ない、「愛する者ですら一つの命でしかない」という歪み。それを青いうちに悟って、自らの歩みを止めてしまった優しすぎる彼女に、今一度、太陽の方角を教えてやりたい。


「ヒーローってのは人様の人生、いいや運命に介入する仕事だ。命を賭して綺麗事なんて言うが……他人のために自分の大切なもの全てを投げ出せる人間がヒーローになったら、じゃあ誰が"全て投げ捨てちまったヒーロー"を救うんだ?」


 かつて自分も、大切なものを見捨ててしまった。仕方がないと何度言い聞かせても、しつこいほどに胸を蝕む自責の念。それから完全に解放されたとは相澤は言えない。けれどその後悔をきちんと真正面から受け入れて、また前へ向かって歩いていくための過程で傍に居てくれた友人がいた。自分を教師と言う道へ誘ってくれた先輩がいた。

命は救われていなくとも彼らは相澤のヒーローだった。彼らがいたから今相澤はみょうじの元教師としての関係性をもってこの場にいるのだ。


「自分や家族が大事? 大いに結構。じゃなきゃあ、本来守られるべきヒーローの人権なんて、存在しなくなる。ヒーローってのは難儀なもんで……他人もだが、自分の未来も守らなきゃいかん」


この言葉は自分に言い聞かせるような言葉でもあった。相澤は一息に言葉を尽くして、それから残り僅かの液体を飲み干す。こんなにも饒舌になってしまうのは自分だって酒の影響を受けているのかも分からない。

みょうじは何も言わなかった。ただ肩に力が入っているようで、あの様子では机の下でスーツを握り込んでいるのに違いなかった。ああ、いつまでも息苦しそうな顔をするこどもだ。彼女の緊張を解きほぐすために、相澤は笑うように息を吐いて声を紡ぐ。


「……こういうのは滅多に言わないんだが。まァ、遅めの卒業祝いだと思って聞いてくれ」


少し考えれば分かる話だ。

みょうじなまえは、まだヒーロー免許を持っていた。要求される一定の事件解決数や講習、面倒な更新手続きを丁寧にこなして。目の前で起こった犯罪を見過ごすことができないのはみょうじの正義感ゆえなのかもしれない。けれど。相澤は彼女の一連の行動に、僅かな光を見出していた。

この子はまだ、ヒーローに失望しきってない。心のどこかで、ヒーローを諦め切れていないのではないか。

仮説が正しいなら、相澤が取るべき行動は一つだけだ。

もう曖昧な言い方はしない。聞き間違えることも背景を邪推することもないように、一言一句に力を込めて。



「―――お前は、ヒーローになれるよ。みょうじ」


 心臓が、握り潰される感覚。

弛緩を許されることは無く、焦った器官が一生懸命に血液を体中に回そうとする。なまえは息を吸おうとして、それもうまくできないことに気が付いた。優しく微笑む恩師が、先輩が、想い人が、酸素不足を訴える脳味噌のせいで一瞬揺らぐ。ぱちぱち瞬きを繰り返せば、もっと視界が撓んで仕方がなかった。


(わたしは、ひーろーに、なれる、)


薄脈、すなわち薄れゆく脈拍。

ぴりぴりと痺れを訴える指先は酸素を求めてやまない。そのくせ剥き出しにされた心臓が耳の血管を叩きつけて煩わしい。


(……ずっとその言葉を、誰かに言って欲しかった)


裏付けも証明も確証も保障だっていらない。無責任でいい、ただ、ただ、誰かに……わがままを言うことが許されるなら私にとって唯一のヒーローに、大丈夫だよって、「ヒーローになれるよ」って言って欲しかったのだ。

だってその言葉に価値を見出すのも、現実にするのも私だけど。言葉を投げかけるのは一人じゃできないから。


「あはは…………、っ、やっぱり、好きだなぁ」


林檎酒の吐いた炭酸が水面まで浮き上がって、ぷちり、と弾けた。


writer is 嗄声