あの日の残光を見た
―――その姿、雷鳴のごとく。
夜闇を切り裂き、敵を地に伏せて舞い降りる様はそれほどまでに鮮烈だった。窮屈そうなビジネススーツの肩口の上、懐かしさを呼び覚ます亜麻色の髪が揺れる。黒靴のヒールがコンクリートを打ち鳴らした。
「お怪我はありませんか? 相澤先生」
みょうじなまえが、そこに立っていた。
「…………みょうじ、」
「ふふ、はい。みょうじなまえです。お久しぶりですね」
「久しぶりだな。……迅速な対応、流石だ」
会社から帰宅する途中に遭遇した巨大敵と、それの対処に追われる相澤の姿を見かけて反射的に飛び出したとは言えず、なまえは曖昧に頷く。道具は持ち合わせていないので拘束を相澤に任せ、手早く警察を呼んだ。
「ありがとうございます。一応、免許を失効されない程度にはヒーロー活動もしているので」
と言っても、目の前で起こった引ったくりとか、遭遇してしまった現場での避難誘導程度ですが。みょうじはそう呟いて跳躍で寄ったスーツの皺を整えた。
ヒーロー免許は病気や怪我など特別な理由がない場合、一年間の事件解決数が0だと即座に失効されてしまう。二年おきの救命講習付きの免許更新義務だって、免許の取得だけでなく維持の難しさを証明している。公の場で個性を行使しているということはみょうじはまだヒーロー免許を持っているのだ(彼女はこういう法律を破るような人ではない)。現にスーツで覆われている手足は細くても筋肉が付いていることが分かる。
現場にいる以上、彼女のこともヒーローネームで呼ばなければいけないのだろう。ただ、相澤はみょうじのヒーローネームを思い出すことができなかった。彼女がもしヒーローとして働いていたら、ニュースや街中で嫌と言うほどに聞いたであろうその名前を。言われもない空虚さをひた隠すように、どうでもいい話題をこぼした。
「職場はこの辺なのか」
「はい、すぐ近くです。うちの事務所の夜間パトロール区域は反対側ですから、応援要請に応じられなかったんだと思いますよ」
的確に脳天に落とされたみょうじのドロップキックは、完全に敵性個体を沈黙させていた。相澤が体格差ゆえに即時の確保に苦戦していた敵を、こうも一瞬で捕えてしまうなんて学生時代の諱は伊達ではない。
個性:増強。自身に関連する様々な力……浮力や重力、筋力、腕力、跳躍力、治癒力。それらを増強させる個性は多少の制約はあれど、どの場においても遅れをとることは無い。ヒーローコスチュームなぞなくても容易に空を駆け、ビルを飛び越えて暴れまわっていた超大型敵を沈めるのは容易い事だった。髪の毛の一本乱れていないところがまた、みょうじなまえの"優等生"さを彷彿とさせる。
「仕事が終わるには随分と遅いんじゃないか」
「新米ヒーローがいつまでも領収書を出さないのでその皺寄せです」
「…………それは、なんかすまん」
「先生にも心当たりが? もう、だめじゃないですか」
くすりと口元に手を当てて柔く微笑むさまは、たった今敵を倒したとは思えない優雅さだ。相反してコスチュームの下に疲労と熱を抱えていた相澤は細く息を吐く。夜風が心地いい。
「お疲れ様です、警察です。敵の逮捕に参りました。確保してくださったヒーローはどなたですか」
「彼女だ、俺は避難誘導と防衛しかしていない」
間違いなく自分に手柄を渡しそうだったので相澤は警察官の言葉に間髪入れず答えた。ほら、みょうじの形のいい眉がほんの少し下がっている。
現行犯逮捕に複数のヒーローが関与している時、主格ヒーローは基本的に自己申告制になる。ヒーローが持ち合わせている善性を全幅に信頼した制度だ。みょうじが敵を抑え込んだのだから当然のこと、自分の働きを骨折り損だとは相澤だって思わない。適材適所、というやつだ。
「分かりました。すみませんが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「…………はい。私のヒーローネームは―――」
紡がれたその名はやはり耳に馴染まず、それを紛らわすように相澤はがりがりと頭を掻いた。地面に倒れて動きそうもない、あの大きすぎる敵を移送するのは骨が折れるだろうな、とどうでもいいことを考えながら手続きを済ませるみょうじの背中を見つめていた。
相澤に連れてこられた居酒屋は、(大変失礼なことだが彼がこういうお店を知っているとは思えないほどに)上品で落ちついた店内で、なまえは少しだけ驚いていた。案内された個室には一枚板のテーブルが鎮座しており、店の質の高さを伺わせた。
「プロになると、ある程度会話の秘匿性が確保される店ばかり詳しくなるんだよ。別に大した店じゃないから楽にしなさい」
入店時に相澤とみょうじが免許証をわざわざ提示したのは個室に案内してもらうためだろう。メディア露出のあるヒーローでも気軽に利用できるように、と免許提示さえすればこのようなサービスをしてくれる店は少なくない。
彼の免許証入れはやはりと言うべきか卒業記念品のカードケースで、色違いだなぁなんてなまえの頬を緩ませた。相澤の代は緑、みょうじの代は赤。どちらも目に痛いほどの蛍光色で、それが真っ黒のコスチュームに吸い込まれていくのはちょっぴり面白かった。閑話休題。
飯でも行くか。素っ気なく落とされた言葉に二つ返事で頷いてしまった自分の子供っぽさと、憧れの人の余裕ある振る舞いに明確な差をなまえは感じていた。さり気なく奥側の席を勧められた時だって、思わず撓んでしまった唇をバレないように必死に一文字に結んだ。スーツに砂埃とか付いてないかな、と彼の視線を盗んで汚れを確認する。……取り敢えず大丈夫そうだ。
「卒業生とはよく、こうやってご飯行くんですか?」
枕詞を"卒業生"に限定したのは、万が一彼から女の人の名前が出たらご飯が喉を通らなくなると思ったから。せっかく先生とご飯を食べるのに楽しめないなんて嫌だ。そう思いながらも探りを入れてしまうなんて私全然上手に「さよなら」できてないじゃん、と心の中で笑った。
「いや、みょうじが初めてだよ。第一、俺と面識のある卒業生の方が少ないだろ」
「え? あ、私たちの次の世代を全部除籍したっていう噂は本当だったんですか」
「……みょうじ、何飲むんだ。食べたいものは?」
自分が初めて、なんて言葉に安直に喜んで。それから風の噂の真意を確かめようとすればお品書きを押し付けられてしまった。
(かっこよくて、ちょっと可愛いなんてずるいなぁ)
こういう話の逸らし方はどっちかというと幼く見える。無精ひげの生えた男の人に使う形容詞ではない気もするけれど、片想いというフィルターが既に掛かっている私にその指摘は適応されない。
メニュー表に、シードルの文字を見つけて密かに喜ぶ。りんごは私にとって特別だった。
相澤先生のオススメを聞いて、一緒にメニューを覗き込む。お刺身の盛り合わせを指す指先にささくれを見つけて、そういえば昔ハンドクリームも押し付けたっけ、と思い出す。捕縛布で人よりずっと指先を酷使する彼の手はいつも荒れていた。苦節に満ちた学生時代の思い出を引っ張り出してくるきっかけが彼なのは、まだ恋心を引き続けている証明だ。
想いを告げて壊れてしまうなら、仕舞い込んでこの心地よい関係性をずっと続けていたい。無精卵だったあの頃の切望が、卒業後にも叶うなんて僥倖以外のなにものでもない。注文をする相澤の低音を体に染み込ませるみたいになまえは瞬く。
「それじゃあ、乾杯。お疲れさん」
「相澤先生こそお疲れ様です。……えへへ、美味しい」
林檎の発泡酒を桜色の唇に誘い込むみょうじは相変わらず大人びていた。……酒を飲める歳になっている時点で既に"大人"なのだろうが、在学時から容姿も言動も同世代の連中からかけ離れていた彼女は、あまり時間の経過を相澤に感じさせない。
それでも目元を煌かせる粉だとか頬に載せられた薄紅、指先を彩るマニキュアは相澤からしたら見慣れないもので。卒業生と酒を酌み交わすとは何とも変な心持ちだ。括れたビールグラスを傾けながらそんなことを思う。
お造り盛り合わせ、若鳥のから揚げ、長芋の梅肉和え、枝豆のホイル焼きに出し巻き卵、醤油の香ばしい焼きおにぎり。ほとんどが相澤のチョイスしたメニューに舌鼓を打ちながらみょうじの舌はよく回った。年若い女の囀りなど学内で嫌と言うほど聞いているのに、丁寧に近況を綴る彼女の声は相澤の鼓膜を優しく揺らすばかりだ。
「今日のみょうじはよく喋るな」
「ん……ごめんなさい、うるさかったですか?」
「そうじゃないよ。……酒、あんまり強くないのか?」
「うーん、確かにもう酔ってるかなぁ」
記憶の中のみょうじの声よりも溌溂に満ちた、ほの高いそれは相澤の苦笑を誘った。決して呆れなどではなく、酒が入ればあの取っ付きにくさはここまで緩和されるか、という密やかな有効打を見つけた気分だった。間接照明の店内でも分かるくらい、彼女の頬は赤らんでいる。遠慮の塊、と世間一般で称される程度に料理が残った皿へ、ふと相澤が視線を落とした時だ。
まろい声が、あの忘れがたい鋭利を内包する。
「だから今は何でも素直に答えちゃうかもしれません」
昔から何でもないような口調で、相澤の心を見透かした言葉を吐く生徒だった。将棋でも指しているかのようにこちらの思考を読んで、先回りしては言葉を落とす。彼女の十八番とも言うべき、会話運び。
相澤は泡の消えたビールを流し込もうとして、グラスを戻す。机に浮かんだ円形の水滴が店内の照明を反射して淡く光る。彼の言葉を促すみたいに、また明確に答える意志があることを誇示するようにみょうじが姿勢を正した。