手も腕も消えないから大丈夫



みょうじの言葉に目を見開いた相澤は頭上に疑問符が浮いて見えそうなほど、心底不思議そうに瞬いた。


「やっぱり、って何だ?」
「ええ?気にするとこそこですか?」


くすくす笑う耳触りの良い声が、自然と鼓膜を惹き付ける。

照明か化粧かアルコールか、それとももっと別の何かが起因しているのか。ほんのり染まった桜色の頬を上品に綻ばせるみょうじは、まるで最愛の墓前で手を合わせるよう、両手でそっとグラスを覆った。僅か手前に傾けた拍子。随分角の取れた氷がカラン、と鳴る。長い睫毛が影を落とす。


「そっちの説明は……ちょっと難しいですね」


一口煽れば蘇る、あの日の味。なまえにとっては懐かしい過去。本当はもっと早く捨てるべきだった、あまりに幼く独りよがりな記憶の破片。ずうっと心に刺さり続け、何もかもを背負ったままの兄が笑う度、奥へ奥へと食い込んでいったあの夜。舌へ触れる、アルミ缶特有の微かな金臭さ。小学生が好みそうな、冷えたりんごの味。


「…………」


確かに存在した幻を掻き消すように、醤油へ浸した刺身を咀嚼する。美味しい。さっき食べた焼きおにぎりも、お焦げが良いスパイス代わりだった。さすがプロヒーローに選ばれる店だと、落ち着いた個室内をぐるり。

でももう、来ることはないかな。
たぶんこれで最後。

最早友達同然の感傷が、心の隅で芽吹く。



いつもそうだった。思い出ばかりを増やしてしまう。忘れたくないのか、縋りたいのか、諦め切れないのか。彼の中に、罅割れた仮面を貼り付けた自分が生きている。そう信じていたいのか。

実に未練がましくて笑ってしまうほど、なまえは自身の浅ましさを良く分かっていた。

今日もそう。さよならをしたはずだった彼の姿を見留め、居ても立っても居られなかった。目薬の入った小包やハンドクリームを置き去りにした、あの昼休みだってそう。近付き過ぎてはいけない。だから一歩引いて背を向けて、でも、それだけ。そこからどこにも進めない。忘れてしまえば楽なことくらい、とっくの昔に理解っていた。だって馬鹿じゃない。それでも気付けば追っていた足音が遠退けば遠退くほど、つい不安になって振り向いてしまう。手を伸ばしてしまう。いつの間にか大事に大事に育ててしまっていた、愛着さえ湧いているこの想いを捨てることなんて、おそらく生涯出来やしないだろう。どうせ実ることもないのに。満開の桜と共に花開くのはいつだって、淡く鈍いこの痛みだけ――。



年上男性の顔を立てなければいけないことくらい百も承知であったが、丸々ご馳走になるわけにもいかない。もう学生じゃあない。財布からこっそり出した五千円札を箸置きの隣へ忍ばせる。


「ねえ、相澤さん?」


緩やかに顔を上げたみょうじが微笑む。形のいい眉をほんのり下げ、上気した頬を緩め、いつになく湿り気を帯びた深海の如く青い瞳に、道行く数多の視線を虜にするその双眼に、たった一人の男を映す。

何も知らない。何も覚えていない。何にも気付かない。人生の先輩として、プロとして、教師として。どんな些細な時間の隙間もいつだって絶対的なスタンスを保ったまま接してくれた、時折細まる気のない三白眼と、やっぱり時折息を吐くように笑う素っ気ない唇。

そんなあなたが、


「ずっと好きでした」


水を垂らした水彩絵の具のようにじわりじわりと滲んでいく想いの淵で、何度も濾過した混じり気のない愛しさを胸に微笑む。コサージュを整え背筋を伸ばし、さよならだけで精一杯だった青くさい私はもういない。もう子どもじゃない。子どものままでは、いられない。

これからも好きです、と。今にも溢れてしまいそうな涙を呑んで、さあ笑え。


「伝えてみたかっただけなので、忘れてください。相澤先生には、そのままでいて欲しいです」


ご馳走様でした。

美味しかったですと付け足すことも忘れず、最後まで凛とした声を保ったまま立ち上がる。


「、みょうじ」


固まっていた相澤の口が動いたのは、殆ど条件反射だった。馴染み深い静けさではなく、慈愛のような温もりを纏うみょうじの笑い方に、いつかの残影が重なったのだ。

立ち去ろうとする小さな背を呼び止める感覚は、網膜も声帯も覚えていた。ただ一方的に押し付けて、こちらが返事を考えあぐねている内に去っていく。ぱたぱた。小走り程度の軽やかな靴音。鮮明に色を灯していく記憶の中、思えば一度だって、逃げていく背中が止まった試しはなかった。

あの頃はそれでもまあ良かった。放課後であっても、次の朝日が昇れば自ずと登校してくる。授業がある六日間の内ヒーロー倫理学の時間はそれほど多くなかったが、優等生が授業をサボることなど当然なく。いつも決まって窓際に座り、外を眺めていた。彼女の普段と何ら変わりない様子を教卓から確認することが出来た。“また明日”が約束されていた。

けれど立派に社会人をやっている現在は、じゃあどうだ。約束された明日はあるか。たった今忘れてくれと願った男に、今までの傾向からして返事どころか反応すら望まないみょうじと俺に“また明日”など――。




「みょうじ、待ちなさい」


引き戸にかかった手が一瞬止まった隙を、今夜ばかりは見逃せなかった。腰を上げずとも届く距離。丸まっていた背を伸ばし、上体を僅かに捻る。つい数時間前、巨大敵を容易く圧したとは到底思えない細腕を折ってしまわないよう(無論簡単に折れないことは分かっていたが)やんわり握る。振り向いた濃青が驚きを孕んで瞬き、長い睫毛に弾き出された水滴が真っ白な頬を伝った。


「……泣き顔は初めて見るな」
「っ……も、こんな時に、」
「茶化してねえよ」


お返しと言わんばかりに先回りしてみせた相澤の視線が、みょうじを捕らえる。ろくな言葉も思い付かず、ただ湧き出る涙をはらはら落とすだけ。花弁のように舞って映える透明が煌びやかな照明を反射し、まるで星が瞬くようにちかちか光る。

綺麗だ、と思う。

寒気がするほど鋭い眼光も悪辣が滲む声色も持たない今のみょうじは、さながら産まれたばかりの赤子のよう。生徒であった当時よりもひどく幼く感じられた相澤は、だからこそ何の躊躇いもなく、掴んだままの腕を自然に引いた。無骨な男の手に誘われるまま、大人しく床を擦った爪先。躊躇いを後ろ手にたどたどしく膝を着いた華奢な体躯が、猫の子ほどの軽量を硬い胸板へ委ねる。ふわりと鼻先を掠めた知らない香りに、心臓が、ざわり。


(……まずったな)


初めて触れた肩や背や腰が、まさかこんなに柔いとは。

個性を活かせるだけの体作りはしているだろうが、それにしたってあまりに線が細い。要請先で女性を抱え上げることも決して少なくないというのに、初めてせり上がるこのむず痒さは一体何なのか。腕の中にすっぽり収まっている教え子が、どうしようもなく“女”であることを実感する。やり場に困った手は、取り敢えず頭を撫でてやるに落ち着いた。言い訳をさせてもらえるなら、単に幼子をあやすような軽い気持ちだった。泣いている赤子を抱いて、ちょっと宥める程度。間違っても下心など一切ない。それがこうも掌を返すように揺らいでしまうとは思いもしなかった。



まだ涙が止まらないのだろう。着々と湿っていく自身の襟元に、動揺を包んだ息を吐く。小さくしゃくり上がった背を撫でてやれば「……すみません」と謝られ、いや俺も悪いとついこぼれそうになった言葉を慌てて呑み込んだ。再度浮かせた手は床へ。


「落ち着いたか」
「……落ち着くと思いますか?好きなんですよ私。……先生のこと」


ああ、そう言えばそうだった。少々反抗的に響くくぐもった涙声、拗ねるような子ども染みた言い方、皺を作ることさえ厭わず服を握る手。何もかもが初めてばかりで、そもそも子どもや女の扱いが不得手である頭はすっかりお手上げ容量オーバー。追い付いてすらいない。おまけに今日のこいつは、酒のせいか饒舌だ。


「好きな人にくっ付けて、頭撫でられて。喜ばない女がいると思いますか?」
「……いや」
「もしかしてこれも、遅めの卒業祝いですか」
「……」
「素敵な思い出を、どうも有難うございます……」


尻すぼみに震えていく声。


「死にそうなくらい苦しいですけど、この先ずっと、わたし、今が一番幸せです……」


涙をありありと含んだ、それでも縋ろうとしない声。数瞬湧いた情のままに抱き寄せるなどと、素面であれば必ず思い止まったであろう俺の軽率な行いに、山ほど募ったはずの文句を一つも象らない言葉の羅列。

これからもこいつは、こうして誰にも頼らず求めず、独りで自分を抱いて生きていくつもりなのか。……お前、そんなんで生きていけんのか。

少なくとも俺より十は若い。まだ目が眩むようなこれからが待っている。そんな引く手数多の美人が今、こんなパッとしないおっさんの腕ん中を『生涯一番の幸せ』にしてどうする。同じ歳かちょっと上くらいの、それこそ、ビルボードチャートの上位に入るような華々しいヒーローと結ばれた方が幸せなんじゃないのか。類稀なる全てを持つどこまでも良い子なみょうじなら、全く夢じゃない未来の話だ。事務所にだって若い連中はたくさんいるだろう。それでも、あの時背中を押してさえやれなかった俺がいいと。好きですと。そう、泣くのか。


愛用している目薬。それから、未だ寝袋の中で眠ったままの非合理的なハンドクリームを筆頭とし、デスクの端へ置き去られた嗜好品の数々が脳裏に浮かぶ。


「……みょうじ」
「いいんです。何も要らないです」
「みょうじ、」
「ほんと、ちょっと言ってみたかっただけなんです。すみません困らせてしまって」
「なあみょうじ」
「やだなあ先生。私今史上最強にブサイクなので、そんなに顔見ようとし――」


ないでください。

おそらくそう続くはずだったろう言葉は、良く回る口ごと塞いだ。薄い見た目より随分柔らかな唇から移ったのは、ほんのり甘い林檎のアルコール。


「……“優等生”のお前は、知ってるよ」


網膜に焼き付いてちっとも消えやしない、深く青い瞳。窓の外を眺める輪郭。静けさを纏う呼吸。陽に透ける瞼。風に揺蕩う亜麻色。誰の眼にも一等柔らかく映え、透明にさえ感じられる肌。上品な仕草。

歳月と共に薄れていた筈のそれらが、色鮮やかに胸を叩く。今もまだ尚、校内のあらゆる場所で面影を見る。どれも“高嶺の花”であり、“優等生”として微笑む、気高く可憐な“大人びた”姿。


「けどな。それ以外のお前は、今初めて見てる」
「っ、ダメって分かってますから、」
「待てみょうじ。ダメじゃないから、人の話は最後まで聞きなさい」


全く。そんなに悪い方へ考えるタイプじゃなかったろうに。……いや。そう見えるよう振る舞っていただけで、これが本来のみょうじなまえなのか。

背骨が顕著に浮く丸い背中を努めて優しく撫でてやる。少しでも不規則な呼吸が落ち着くための材料になればいい。心が凪ぐきっかけになれればいい。俺に対する好意が膨れるっていうなら、別にそれでもいい。唇を奪った分の覚悟くらいは、さっき漸く整え終えた。


「少しずつでいい。ありのままを教えてくれ。今はまだ胸張って同じ気持ちだとは言ってやれないが、ちゃんと嬉しかったよ」
「……それ、ほんとですか……?」
「ああ。嘘でキスするような男だと思うか?」
「ぅ……。あの……よく分かんなかった、ので」


俯きがちにしゃくり上げたみょうじの指が涙痕を拭う。浅く酸素を取り込む、桜色の唇。


「もう一回してくださいって言ったら、してくれますか……?」


化粧も何もあったもんじゃないぐしゃぐしゃの顔で、これまた可愛いことを言う。愛されて育っただろうわりに、ろくな甘え方も知らないのか。そういうところは不器用なんだな。

思わず返事も忘れて笑ってしまいながら、仄かに鼓動を乱し始めた気恥ずかしさを抑え込む。また泣き出すといけない。そんな懸念から早々に唇をくっ付けてやったというのに、深海のような青い瞳が海そのものになるまで、そう時間はかからなかった。さあどうしたもんか。全くこいつは。途端に赤ちゃんだな。


「そんな風に泣かせてやれていたら良かったな」
「っ、……できなかっ、たです、よ」
「出来たよ。お前がどんなに頑固でも、出来た筈だった」


あの時お前が、もっと不完全で隙だらけな“背伸びをしているだけの子ども”だったなら。“大人”ではなく“大人びている”ことそのものに、俺が疑問を抱いていたなら。例えば副担任だった香山さんでもいい。お前に関わった誰か一人が違和感を覚えてさえいれば良かったのだ。問い質すでもなく、訳を聞くでも導くでもなく。まだ頼ることが許されている内に『さあ泣け』と寄り添い、そうしてやはり、違う道を見せてさえいれば、それで。


「悪かった」


許されたかった訳ではない。ただ自然と口からこぼれ出ただけの、何とも簡素で不格好な謝罪。それでも彼らしいと泣きながら笑ったなまえは、幸福を噛み締めながらしっかり頷いた。

何せ一度にたくさんのことが起き過ぎて、高性能な頭をもってしても既に窒息寸前だ。彼に罪があったとは決して思えないが、しかし彼自身が認め謝る今、それは確かにあったのかもしれない。分からない。ぐるぐる思考を巡らせることは、もう難しい。それに、いつだって飾らない想い人を許すことは、最早考えるまでもなく世界で一等簡単な問いかけだった。


「好きです、っ……すきです、せんせ」
「分かった。分かったからいい加減泣き止め。で、次“先生”って呼んだら除籍にするからな」


ぱちくり。瞬いた瞳から、はらり。
最後の一粒が舞い落ちる。

散々泣き腫らした赤ら顔は、けれど綺麗に成熟した美貌を崩すに値せず。みるみるうちに頬を緩めていったみょうじが、華のように笑む。


「消太さん!」


甘やかに美しく、心地よく。どんなお菓子や宝石だって敵わない馨しさを秘めた響きは、仮面も理性も何もかも全て宇宙の彼方へ放り出し、ただありのままで愛されたかった五臓六腑を情愛豊かに拍動させた。



fin.


writer is 汽水車