花の火傷
まだ慣れていないからか。名前を呼ぼうとする度、なんとなくの気恥ずかしさが胸をくすぐる。いろんなものが溢れて仕方なかったあの時はあんなにスっと呼べたのに、どうしてだろうね。
「消太さん」
こっそり深呼吸。何度も舌の上で反芻し、高鳴り始めた鼓動を宥める。まるで予行演習。上手く出来なかった子どものおさらい。
そんな私にこれっぽっちも気付いていないだろう機械越しの声は『ん?』と、いつもの調子で片眉を吊り上げた。電波だけの応酬なのに、表情まで浮かんでしまうんだからベタ惚れも良いとこ。会いたいなあ。先生の家はどこなんだろう。……ああ、先生って呼んじゃいけないんだっけ。
やっぱり浮かぶ気恥ずかしさを左心室へ押し込んだ。この口が覚えるよう、もう一度名前を呼ぶ。返ってきたのは少々ぶっきらぼうな『何だ』で、つい笑ってしまった。
電話、苦手なんだろうなあ。
それでも大体三コールで出てくれるのは、相手が私だからか。緊急でも応援要請でもないと分かるなり安堵の吐息をこぼし、時間が許す夜はこうして繋いだままでいてくれる。おやすみまで付き合ってくれる。自分からかけたくせして上手な話題のひとつも提供出来ない私を責めたりしない。もちろん喋ろうと思えば幾らだって出来るけれど、時折訪れる沈黙をただの静寂として扱ってくれる淡白さに甘えている。でないと、すぐ釘を刺してくるのだ。もう優等生である必要はないことを“無理はするなよ”なんて、至極合理的な七文字で。
「呼んでみただけです」
『……』
「すみません」
『……すみませんって声じゃないが』
「ごめんなさい。好きだなあって思ったら、ちょっとにやけちゃって」
『……』
再び黙ってしまった低音に許しを乞う。押しに弱いんですね?なんてからかいは呑み込んだ。Ms.ジョークの冗談とも本気ともとれるプロポーズを何度も一蹴している彼には愚問だ。私だから許容される。気持ちの大きさは違っても、あの居酒屋で植わった種は確かに芽吹いているだろう。だから後は、私が素直に甘えるだけ。ありのままを見せるだけでいい。
陽の差す方へ思考を向けて、もそもそ布団にくるまる。切りたくないけど、そろそろ寝なくちゃね。明日も書類とパトロールが待っている。彼もきっとそう。書類は私より少ないだろうけど。
「消太さん」
『……また呼んだだけか?』
「違いますよ。そろそろ明日だなって思いまして」
『ああ、もうそんな時間か』
「はい」
声が震えてしまわないよう、わざと短く肯いた。おかしいなあ。また気軽に連絡出来る明日があるっていうのに、どうしてこんなに名残惜しいのか。
切りたくないなあ、でも寝なくちゃなあ、って堂々巡りをもう一周。先に『おやすみ』と切り出した彼の声が、寂しがり屋な鼓膜をあやす。「おやすみなさい」って目を閉じた刹那。
『なまえ』
――ドクン。
『また明日な』
吐息混じりの笑い方を最後に、夜が降り立つ。こんなタイミングで、まさか初めて名前を呼ばれるとは。
「っ……、もう……」
ねえずるい。嬉しい。苦しい。熱い。
この脆弱さを見抜かれてしまったのかなとか、声色に出てしまってたかなとか、明日も電話していいってこと?とか。そんなことよりちょっとだけ優しく聞こえた低音が、ただただ好きで愛しくって。
大きく脈打つ心臓が、今にも破裂してしまいそうだった。