ひとり冷めてゆく世界



 自分はヒーローになれると私は信じて疑わなかった。

だから国内最高峰のヒーロー科に入学した。元から割と何でも器用にこなせる方だったが、努力を重ねてそのエリート集団のなかでも頂点を維持し続けた。それはヒーローになるという高い志をもった学友たちと切磋琢磨し合うなかで、自分を見つめ直したかったからでもある。

勉強という行為は、自分が今どこまで物事が見えているのか? を理解する実に良い手段である。無知というのは眼鏡に付着した汚れのようなものであり、それが取り除かれることによって見えていたものはより明確に、そして周りに広がる新たな何かの輪郭を掴むことができる。

"なぜ、ヒーローになるのか"
"ヒーローとは何を救う者なのか"
"平和の象徴に求められる素質は何か"
"私は平和の象徴になれるだろうか"

ヒーロー科に籍を置いて学ぶということは、常にこれらの疑問に対する答えを探すことに等しい。そして答えが見つかった後は、正しく己がその答えの体現となるためにさらに努力を積み重ねていく。そうすれば、私も立派なヒーローになれる。

結局のところ、私はそう"信じていたかった"のだ。










「なまえ! この後スタバに新作飲みに行こうよ!」


 クラスメイトが授業終わりに駆け寄ってくる。短いスカートを揺らした彼女は、机に置いていたみょうじの鞄を人質にとって快活に笑う。最後の科目であったヒーロー倫理学の教科書をノートと一緒に綴じ込みながら、みょうじは言葉を紡ぐほかない。


「えぇ、別にいいけど……試験前なのに余裕だね?」
「なまえの方が余裕でしょ! この万年トップちゃん!!」


「じゃあ行こうか」って、ねぇ、今私上手に笑えてる?

クラス替えのないヒーロー科で一番仲の良い友人に腕を引かれて渋々歩き出す。取り返した鞄に教科書を突っ込むと、クリアファイルに仕舞い忘れていたプリントが中でぐしゃりと悲鳴を上げた。聞こえなかったふりをして教室から爪先を出した。


(……ほんと、随分と余裕だなァ)


高校三年生の春学期。進路が決まり始める、そして将来の就職先になり得る事務所でのインターンを控えた、僅かな学舎での学びの時。緊張感の薄いらしい友人に黙って従うのは、喉を割いて出ていかんとする悪辣を殺すためでもあった。


(どうして、焦らないんだろう。ヒーローになるってそんなに簡単なのかな)


"優等生"の自分だって、将来サイドキックとして就職しないか、と声をかけてくれる事務所はある。それも、両手と両足じゃ足りないくらいに。もって生まれたこの増強という個性は、近接戦闘・遠距離攻撃・移動・回復とどの分野にも応用が利き、それでいて他の個性になんて劣りやしなかった。

ギフテッド、即ち神から授けられた贈り物。そう称したって遜色ないほどに増強は強かった。個性が発現した四歳児の時点で既になまえは神童とよばれ、渾名は今だって変わらない。自分自身の努力もそうだが、幼少から染み付いた万能感が、今のなまえの土台を作っている。


……全て、自分は持ち合わせているはずなのだ。ヒーローになるために必要な素質とやらを。

なのにどうして。敢えて言い換えるなら「どうして自分はこんなにも焦っているのだろう」。

みょうじなまえは自他ともに認める優秀な生徒だ。人目を集める整った容姿、気軽に声をかけられる柔らかい雰囲気、対敵・救護なんにだって対応できる個性、努力を惜しまない直向きさ、一を聞いて十を知る高性能な頭脳。完璧なのに、あとは何が足りないというの。何が足りないから、私はこんなにもヒーローになる、ということに不安を抱いてしまうのだろう。


(ヒーローになるのがゴール? 違うでしょ)


どの瞬間からヒーローであると定義するのは難しいけれど免許取得を一区切りとするならば、自身の名が刻まれたライセンスを手にした時点で私たちはヒーローになれる。……けれど、本質はそこじゃない。ああ、またここで出てきた! 「ヒーローとは何か」問題が!


(皆ある意味、真っ直ぐなんだよね。目の前の壁に向かってPlus Ultra……それに比べて私は、いや……やめよう)


優秀過ぎる脳味噌は、いつだって要らぬ予測を引っ張ってくる。胸元にかかる亜麻色の髪を後ろに払う動作に紛れて、こびり付きそうな思想を追いやった。


(スタバとかどうでもいいな。早く帰って勉強しないと)


この不安が自分の足を絡めとって歩みを妨げることが、みょうじは一番恐ろしかった。視界の靄を晴らすには、勉強するしかないのだ。何かを怖いと思うのは、それが何かを理解していないからだ。隅々まで理解してしまえば別に少しも怖くない。学年首位というのも、この自分のための勉強の副産物に過ぎなかった。










 それでも、内側にホイップクリームのへばりついたプラスチックカップを携えて帰宅してしまうあたり、自分はどうも頼みごとに弱いらしい。……いいや、表現が正しくない。"ヒーローに相応しいお人よしの片鱗"を兼ね備えているらしかった。


「おかえり、なまえ。あ、スタバ! いいなぁ」


出迎えてくれた兄の顔に走る、醜い傷跡と引き攣った皮膚。それを一瞥してなまえは言葉を落とす。


「……ただいま、お兄ちゃん」
「おう! 母さんが飯にするから急げってさ!」


にかり、と笑う兄の頬は皮膚移植のせいで色調が途中から異なっていた。曖昧に返事をして鞄を床に降ろす。碌な教科書も入っていないのに酷く重たい音がした。


writer is 嗄声