逆さまに吊るした花の色
ああ、最悪だ。そもそも朝食のサクサクトーストが喉を通らなかった時点で、既におかしかった。結局半分も食べ切れないまま時間だからと足早に家を出てしまったけれど、やっぱりどうも調子が悪い。鈍く脈打つこめかみに、小さく息を洩らす。大丈夫。きっとすぐに治まる。ちょっと寝不足気味なだけ。夜の自室で予習すると、つい時間を忘れてしまっていけない。今度からタイマーでもセットしようかな。
窓の向こう。見上げた先の空は厚い雲に覆われ、今にも泣いてしまいそう。
形のいい瞳を細めたなまえは、まあそんなに心配せずとも時間が経つにつれてマシになるだろうと、心の中で高を括った。ヒーローたる者、こんなことで休んでなんかいられない。理解っている。現実がいつだって待ってくれやしないことくらい、とうの昔に。
「おはよーなまえ!」と元気良く放り投げられた友人の声を受け止め「おはよ」と笑う。たぶん上手に笑えてる、はず。
「昨日はあんがとね。ちょー美味しかった!」
「こちらこそ。凄い飲んでたけどお腹大丈夫だった?」
「のーぷろぶれむ!また行こっ」
「試験終わったらね」
「も〜真面目ちゃんめっ」
「学生の本分ですよ」
一向に治まらない鈍痛に耐えながら、いつもと変わらない燦爛たる淑やかさを湛えて言葉を返すなまえは、見事なまでに周囲の目を誤魔化し、更に言うなら欺けていた。
「みょうじ」
そう。今年赴任したばかりである相澤消太が受け持つ四限目。ヒーロー倫理学の終了を告げるチャイムが鳴り響き、少々こもった低音が真正面に立つまでは。
「何ですか?」
緑色の蛍光ペンを筆箱へ戻す。ほんの一瞬ぴくりと震えたその指は、流れるような動作で閉じた教科書を机の中へ送り込んだ。
やはり様子がおかしい。
相澤が遠目に、あるいは教卓から目にしてきた“優等生”の彼女であれば、直ぐさま顔を上げて微笑むところ。授業中、黒板とノートを行き来するはずの頭を殆ど動かしていなかったのはおそらく、ただの気の所為ではない。
疑念が確信へ変わり、しかしどう言ったものかと逡巡する。その間、ようやく緩慢ながら顔を上げたみょうじは、自分を見下ろすモサモサした男の顰めっ面を捉えるなり笑って、それから机についた手を支えに立ち上がった。
「ちょっとだけなら、お手伝いしますよ」
まるで“ちょっと良いか”なんて、それとなく連れ出すべきか迷っている相澤の思考を易々見透かしたような台詞。実際それは彼女にとっての虚勢であり、周囲へ隠し通すための防衛手段でもあったが、凛とした出で立ちを保ったまま廊下へ出る小さな背中が追及を良しとするわけもなく。結局相澤は何とも言えぬ心地で足を進めながら、わしわし後頭部を掻いた。
丁度昼時で良かった、と思う。生徒は食堂へ一目散。相澤とみょうじを気に留める目はなく(それでも靡く亜麻色に誘われて振り向く生徒は数人いたが)やがて足音は、二人分になった。
引き止めたのは相澤の方。咎めるべきか、それは果たして俺の仕事なのかと自問しながら、それでも放っておけばこのまま資料室まで行きかねない亜麻色を呼ぶ。
「お前が行くのはそっちじゃないだろ」
「……」
「そこの階段降りて左だ。気を付けてな」
さあ職員室へ戻ろうと片足を僅かに引いた瞬間。「……体調不良は」と呟く声が、だだっ広い廊下に小さく反響した。ゆるり。振り向いた瞳が遥か頭上の三白眼を仰ぎ、そうして静かに声帯を震わせる。
「体調不良はヒーローをお休みする理由にはならないし、人命が掛かっているなら尚更、自分の管理不足を言い訳に、その命を蔑ろになんて出来ない。そうですよね?相澤先生」
「……お前、どうしようもない馬鹿だな」
呆れ混じりにこぼれ出た言葉を、けれど相澤は呑み込まなかった。
「自己管理出来てない時点でヒーロー失格だろ。そういうのは、せめてでも本免許取ってから言いなさい」
「…………はぁい」
「返事は短く」
「……はい」
十七そこらでヒーローの根底を語るにはまだ早い。ましてや、プロである自分の言葉を引用した結果が今の状態であるなら尚のこと。もちろん自覚を持つのは大いに結構だが、だからと言って、頼ることを許されている状況下で我慢を強いる自罰的傾向は、手を叩いて褒められたものではない。早く大人になろうとするあまりか。単に真面目過ぎるのか。
眉根を寄せた相澤は息を吐き、手にしていた教材で自身の肩を軽く叩いた。瞬くみょうじの深縹が、まるで一挙手一投足を逃すまいとするように、成人男性そのものである骨格が動く様を微細に追う。
「何をそんな焦ってる」
「…………」
ふるり。長い睫毛が僅かに震え、それから伏せった。いつも柔らかな笑みを湛える口角は上がらないまま。せめて表に出ないよう努めて踏ん張ってでもいればまだ可愛いものを、そんな風にさえ感じさせることなく、ただ毅然とした静けさを纏ってそこにいるみょうじの腹を探る言葉など、そもそも生徒の扱いに乏しい新人の相澤に思い付けるはずもなかった。
自分だって、いつも正しい選択が出来ていたわけではない。惑い悩むことがイコール間違いではなく、思春期という多感な時期においても、自答する他ない成人期においても、むしろ正解と言って良い。それが自らを形成し、また、成長させていく。正しくないことを恐れる必要はない。
「餞別だ」
「、」
無言を貫くその手元へ、飲料ゼリーを投げて寄越す。頭痛か腹痛か発熱か。それとも、ただ気分が優れないだけか。まあ何にせよ、邪魔にはならないだろう。
「しっかり寝てこい。俺は戻る」
今度こそ踵を返し、職員室へ。
“真っ直ぐ進め”
そんな思いが込められた相澤なりの気遣いをみょうじは暫くじいっと見つめ、それからポケットに仕舞った。階段を降りて左。真っ直ぐ進んだ先の扉を開け、ちょこんとイスに収まっているリカバリーガールの物珍しげな声と視線に微笑む。五限が始まる予鈴まで。そう申し出て、一番奥のベッドを借りた。
三日後。残業の友である缶コーヒーを切らしていることに気付き、仕方なく自販機まで買いに行った帰り。赤い夕陽が煌々と染め上げる廊下の角で、視界の左側、既に生徒は下校しているはずの教室から声がした。
「考え直しなさい」
「でも私、」
「期日なら試験が終わってからで構いません。進路指導には俺から言っておきます」
「……はい」
姿は見えずとも聞き覚えのあるそれは、ヒーロー科を受け持つ教師とみょうじのもの。優秀な彼女のことだ。このまま華々しい卒業を飾り、一流への道を颯爽と駆けていくのだろう。進路について議論が起こるのは、この時期さして珍しくない。俺の代も、熱心なオファーを蹴ってわざわざ別の事務所を志望した奴なんかがいた。
在学していた頃の空気をぼんやり思い出す。懐かしさと共に浮かぶ感傷を振り払った相澤はさあ仕事だと頭を切り替え、止めていた足を動かした。