明日を上手に生きるには
「失礼します。相澤先生いらっしゃいますか?」
涼やかな風と共に凛とした少女の声が舞い込んだのは、教職員の殆どが食堂へ吸い込まれていった昼下がり。一人デスクに齧り付いていた相澤が漸く纏まったプリント原案を保存し終える、なんとも測ったようなタイミングだった。
クラスを受け持っていない俺に、一体何の用か。
丸まっていた背筋を伸ばし、デスクへ手をつく。けれど一足遅かった。軽やかに寄ってきた靴音が「誰もいないんですね」なんて、すぐそこで止まる。浮かしかけた腰を吐息混じりに落ち着けた相澤は「どうした?」と、簡易的な事務イスを静かに回した。
「特に何ってないんですけど」
「なら帰れ。ここは遊びに来る場所じゃない」
「……知ってます」
薄い唇が小さく震え、
形のいい眉がほんのり下がって、
―――ふわり。
「冗談ですよ、相澤先生」
太陽は真上。細い首がことりと傾き、揺れた髪が滑り落ちる。日頃、屋内では柔らかさを誇示する亜麻色が陽射しを透かし、まるで星屑のようにちかちか輝いた。人が生まれながらにして美しい物を美しいと感じられる摂理同様、あまり感性が豊かでない相澤もまた“綺麗だ”と、目を奪われる。
瞬きひとつ。ほんの僅かな時空を越えたその意識は、けれど瞬時に逸れた。デスクの端へ現れた掌サイズの小包が奪っていったのだ。
「それ、差し上げようと思って」
「俺に?」
瞠目した相澤に頷き、後ろで組んだ指を擦り合わせる。
胸の内側でふつふつ浮かぶ気恥ずかしさと不安を押し殺すため。それから、あくまで教師である相澤に対する自分の立ち位置を見誤らないため。わざと“先生”呼びを繰り返したなまえは「目に良いって聞いたので良かったら使ってください」と、一歩引いた。ますます中身が分からなくなったのか。戸惑いを孕んだ無骨な指が、それでもそうっと包みを引き寄せる様に胸を撫で下ろす。
良かった。突っ返されなくて。
良かった。突っ返されそうになくて。
「じゃあ私、お昼食べてきますね」
「あ、おい、」
「先生もちゃんとご飯食べなきゃダメですよ〜」
「みょうじ、待ちなさ、っ」
「また明日〜!」
背を掠める制止の声をひらりと躱し、後ろ手を振りながら駆け出す。振り返ることはしなかった。元々多くは望んじゃいない。嬉しそうな反応もお礼の言葉も要らない。先生という立場の難しさも、喜びをそのまま表に出せる男ではないだろうことも、なまえは十二分に理解していた。
所詮、自己満足に過ぎない。薬局で陳列棚を小一時間陣取り、ネット上の口コミと睨めっこしながら選びに選んだドライアイ用栄養たっぷり目薬。決して高価な物ではないけれど、少しでも彼の疲労を和らげる材料になれたなら、それで良かった。言ってしまえば何かしたかっただけ。ちょっと心配だっただけ。それくらい相澤は、なまえにとって他者とは異なる存在だった。たとえ何一つ伝わらずとも、廊下を進む足取りは軽い。
対照的に、夜の家路を辿る爪先はひどく重かった。
傘を被った月に似たぼんやりまあるい外灯が、我が家の目印。玄関ポーチで立ち止まり、つい詰まってしまいそうな呼吸を整えてからドアを開ける。視界の真ん中。人感センサー式の照明に誘われ顔を出した兄が、にかりと笑った。
「おかえりなまえ!」
「……ただいま、お兄ちゃん」
痛々しい傷跡。継ぎ接いだ皮膚。歪に引き攣る色違いの肌が、幼い面影さえも捻じ曲げる。
こうして毎晩出迎えてくれる兄は、たぶん優しかった。いつもへらへら笑っていて、弱音は吐かない。泣いたりしない。痛みも苦しみも、ちっとも感じさせてくれやしない。きっと半分は自分のためであり、もう半分は私を含めた家族のためだった。なのに義務的な笑みさえ返せない私は――……ああ、やめよう。こんなの不毛だ。
嫌なぬめりを帯びて冷えゆく心が煩わしい。兄の顔を見る度、私の手足は鉛のように重くなる。お互い、包み隠さず素直に泣けたならどんなに良かったか。あいにくかける言葉すら浮かばない。兄もきっとそう。おはよう、行ってらっしゃい、お帰り、おやすみ。毎朝毎晩、眩暈がする。言葉が見付からないからこそ、せめて挨拶を交わす。
こんな時、彼ならどうするだろう。何を思うだろう。つい数時間前、とても拙い接し方をしてしまったあの人。“優等生”しか知らない相澤先生は、こんな私を鼻で笑うだろうか。それとも慰めてくれるのか。たぶんどっちでもないだろうなあ。だって想像がつかない。
あの時もそうだった。笑いも怒りもせず、慰めることもなく。ただ赤い光を宿す瞳で個性を抹消した彼は『落ち着け』と言った。
目を閉じれば蘇る。いつだって簡単に思い出せてしまう。心の奥、瞼の裏側、遠い記憶。忘れてしまいたいような、大事にとっておきたいようなあの日の残影が、じわりと滲む。