君のおかげか、君のせいか



昔話をしよう。
今から四年前、まだ私が中学二年生だった頃の話。


お使いの帰りだった。夕飯用のお醤油を買ってきてって母のお願いに「もう暗いし危ないから」と、単に今日発売の週刊少年誌を立ち読みしたいだけだろう兄が人懐っこい笑みを浮かべてついてきた帰り。今思えば、虫の知らせだったのだろう。

スーパーの袋を鳴らしながら、明日は雨かなあなんて、ぼんやり傘を被った満月を見上げた時、甲高い悲鳴が鼓膜を劈いた。縺れた足を引きずるように、脇の路地から走って出てきた女が叫ぶ。


「逃げてッ、早く!!」


瞬間、突如として吹き荒れた熱風から反射的に顔を逸らした。私の肩を抱いた腕は間違いなく兄で、促されるまま一緒になってしゃがみながら、その胸板へ額を押し付ける。状況を理解する暇なんてまるでなかった。一体何がって目を開けた時にはもう、兄の体は小さく震えていて。視線を上げた先にあった顔の左半分は、見るも無惨に焼け爛れていた。

一瞬で頭が真っ白になって、全身の血の気が引いて、嫌な動悸が鼓膜を覆って。かたく閉じた瞼からボロボロ溢れる涙。血が滲むほど噛み締められた唇からは、獣のような呻き声が辛うじて聞き取れた。焦げた臭いが鼻を突く。顔だけじゃない。肩だって服ごと焼けている。あの熱風に曝されたからか。もしかしたら足も――


「ッ、!」


ぶわっと沸き立ったのは、怒り。

私の兄をよくも。罪の無い人をよくも。あの女は?どこ?ああでも待て私。救急車が先だ。


冷えた指先で慌てて取り出したスマホをタップし、繋がった緊急ダイヤルへ現状を伝える。まだ駆け出し未満とはいえ、幼い頃よりヒーローを目指す身。ちゃんと練習しておいて良かったと心の中で自分の努力を褒めながら(そうすることで、自分を庇って負傷した兄に対する罪悪感を打ち消しながら)「有難うお兄ちゃん。直ぐ救急車が来るからね。大丈夫だよ」と声をかけ、ただ煮えくり返る腸を連れて立ち上がった。


「……ねえ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「お姉さん?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


大股三歩先。気が動転しているのか、さっき叫んだ女性が地に蹲って泣いている。どうしたって耳障りな「ごめんなさい」を繰り返しながら、嘆いている。…………何を?

頬を撫でる、季節外れの生ぬるい風。彼女を取り巻くそれは、きっと彼女の個性なんだろう。故意的じゃない。見れば分かる。それなら暴走か。これは事故なのか。でもだからって、謝罪だけで許されるものじゃない。制御出来ない人間が悪いんでしょう?自分の個性を自分で扱えないなんて、単なる怠慢に過ぎない。私の家族を傷付けていい理由には、絶対的になり得ないでしょう?


「……ごめんなさいで、済めば良かったね」


纏わりつく嫌な風を手で払う。

私の個性は“増強”。自らが生んだ風圧を強めて吹き飛ばすくらい造作もない。ちゃんと使えるよう、今まで練習してきたのだ。誰にも劣らない、ちょっと加減を間違えれば人殺しだって簡単に出来てしまうだろう神様からの贈り物をいつだって正しく扱えるよう。間違っても罪の無い人を傷付けたりしないよう。あなたみたいに、ならないよう。

目には目を、歯には歯を。
兄と同じ、痛みと苦しみを。


(あなたも焼けてしまえばいい)


今更身の危険を感じたのか、それともまた暴走が始まったのか。途端に立ち込めた熱気に拳を握り、吹き荒れた風が私を襲うよりも早く“増強”を込めた腕を力いっぱい振るった。そうして彼女は報いを受ける。はずだった。のだけれど。



「そこまでだ」


トン、と降り立った影。低い声。高い背。上から下まで全部真っ黒。僅かに振り向いた黄色いゴーグルから覗く、赤い光。


「落ち着け」


お腹の底を振動させるような良く通る声でそう言った男は、首に纏う白い布のような武器で女性を拘束した。やがて身を焦がす熱さがなりを潜め、彼女の体が地面に横たわる。気絶したのか、させたのか。そっか、そうすれば個性は止まるのか、なんて。嫌に冷静な頭が一つ賢くなる。

遠くで、サイレンの音がした。






「ご苦労様です、イレイザーヘッド」
「いえ、お疲れ様です。救護状況は」
「問題ありません。負傷者は現在二名です。男の子と、向こうのT字路で成人男性が見付かりました」


担架に乗せられた兄の姿を見送った後。搬送先の病院へ向かった母に代わって父が迎えに来るまでの間、私は現場で待つこととなった。別に一人で帰ったって良かったのだけれど、事情聴取の一環で歳を聞いた警察官が良しとしなかったのだ。

怖かったね。もう大丈夫だよ。よく頑張ったね。

そんな安っぽい慰めが煩わしくて、愛想笑いすら浮かばない。恐怖心は確かにあった。でも、それより彼女に傷一つ付けられなかったことに対して落胆している今の自分の方が、よっぽど恐ろしかった。


幾ら理性が多少切れていたとはいえ、頭はちゃんと働いていた。他人よりも家族が大切である感覚は世間一般的に見て当たり前だと思うけれど、ただ私は、ヒーローになれるはずの逸材であったし、そうあるべきだった。ずっとそう思ってきたのだ。神童と呼ばれるだけの個性と実力を併せ持ち、名に恥じない頭だってあって、もちろん努力を怠ったこともない。ヒーローになるために必要なものは全部備わっているとすら自負出来る。そんな私が『焼けてしまえば』なんて。『何であの女は助かってお兄ちゃんが』なんて。

どれだけ削ぎ落としてもこびり付いたまま剥がれそうにないこの意識は、果たしてヒーローたる素質に準ずるだろうか。ヒーローとは、愛と平和を象徴し万人を救えうる絶対的な存在ではなかったか。さっき彼女を傷付けようとした私は、ヒーローとして正しかったのか。傷付けられなかったことを悔いる今の私は、じゃあ――。




「落ち着いたか?」


降ってきた低音に顔を上げる。イレイザーヘッド。さっきそう呼ばれていた彼は黄色いゴーグルを首まで下ろしていて、その瞳はもう、赤く光ってなどなかった。きっとプロのヒーローだろう。頷いてお礼を告げる。分かっていた。止めてくれた彼に感謝すべきだってこと。

有難うなんて言われ慣れているだろうのに、数瞬瞠目した彼は首裏を掻き、それからりんごジュースを一缶手渡してくれた。持っていたのか、そこの自販機で買ったのか。あるいはパトカーに積んでいた物を持ってきた警察官に『渡してあげて下さい』とでも言われたのかもしれない。ボサボサの見た目には不似合いなパッケージに、ちょっとだけ笑った。


「あの女の人はどうなるんですか」
「法に則って裁かれるよ」
「……火傷って、一生残りますよね」
「重度ならな。その分罪は重くなるし償うよう収容される期間も延びる」
「たった数年?」
「さあな。それを決めるのは俺じゃない」
「……そうですね」


沈黙が辺りを包む。ちっとも美味しくない負の感情を散々呑んだ喉はカラカラに渇いていた。開けるか否か。迷いながら握った缶の冷たさは、まるで掌を焦がすよう。


「君が精一杯だったのか、何かしようとしていたのかは知らない」


低い声が静寂と混じる。


「ただ、被害者も加害者も等しく一人の人間だ。罪の重さに違いはあっても、命の重さは変わらない」
「……、」


ああ、凄い人。この人みたいな志が、私にもあったら良かったのに。ねえ、でもどう頑張ったってそう思えないんだよ。思えない自分が間違っているとさえ感じられない。もっと勉強すれば分かるだろうか。ヒーローの本質も、正しさも、自分も。もっと賢くもっと大人になったら、この爛れた意識も変わるだろうか。もっと、もっと――……。


差し迫る濁った情動を振り切るよう、フタを開ける。カポッと気の抜けた音。もしこれが炭酸だったなら、もうちょっと良い音が鳴ったのかなあ。凪ぎゆく心音に耳を傾け、そっとアルミ缶に口をつける。舌の上に広がったのは、りんごの甘味。いっそ不思議なくらい、涙は出ないまま。

結局もの凄い顔で迎えに来た父に連れられ、その日は帰宅。帰り際、車窓越しにイレイザーヘッドの姿を探したけれど見付けられなかった。お醤油はダメになった。




兄の容態が良くないのか。翌日から母は、大きな病院へ通うようになった。私には『大丈夫』としか言わないものだから詳しくは分からなかったし、聞けもしなかった。植皮手術を受けたと知らされ面会が許可されたのは、随分日が経った後。


「ごめんねお兄ちゃん、私……」
「こーら。謝るの禁止!それより俺は、なまえが無事で良かったよ」
「…………」
「そんな顔するなって。個性の暴走だったし、仕方ないことだよ」


仕方なくないよ、とは言えなかった。顔の半分を包帯で覆われたままぎこちなく微笑む兄に、庇われただけの、ただ少し服が焦げた程度の私が、何かを言えるはずもなかった。

だってそうでしょう。後遺症が残るかもしれない、一生物の傷を負った本人が許している。だから私もきっと許さなくちゃいけない。……いけない、のかな。ああ違う。違うでしょ。ほらこういうとこ。こういうところがまた、全然良くない。


何も考えないようにしながら視線を落とす。誰も私を責めなかった。それがひどく痛くて、でも。罅割れた心の中、プロヒーローである彼だけは『落ち着け』と言ってくれた。決して宥めるようではなく、淡々とした低い声だった。



writer is 汽水車