苦しみを問う生きもの
教卓の中に筆記具を忘れたとか、そんなどうでもいい用事だった。放課後に相澤がふらりと訪れた教室でみょうじなまえが眠っていた。体調不良か、と一瞬疑ったが顔色は悪くない。単に睡魔に押し負けたようだ。
窓に最も近い席に座っている彼女の干し草みたいな柔らかな色をした髪が、開けっぱなしの窓から迷い込んだ風に揺られている。直前まで勉強していたようだ、腕の下に書き込みの施された教科書が見えた。
(……こうしてると、みょうじも幼いな)
知性を宿す深縹の瞳が閉じているからだろう。気さくな雰囲気を纏いながらも何となく近寄りがたい美を高校生ながらに輝かせる少女も、眠っている様は歳よりうんと幼く見えた。担任という冠がつくわけでもなく、ただの教科担当である自分が彼女を起こすべきなのか迷って、取り敢えず目当てのボールペンを回収した。
吹き込む、一際強い風。彼女の髪とスカート、相澤の薄汚れた捕縛布をかき混ぜるほどの勢いで吹き抜けたそれは、眠り姫を揺さぶり起こす。
「……ん、あいざわ、せんせ…………?」
眠気の名残か、いたく潤んだ青の瞳が相澤を捉える。
「ああ、おはよう。寝るなら家にしなさい」
「んんん……寝落ちだもん。ふかこうりょくですよ……」
滑舌の悪いみょうじの声が相澤の苦笑を誘った。教員室で話題に上がるだけでなくインターン期間中では連日ネットニュースに掲載されるほど、ヒーローとしての名声を着実に高めていくみょうじが、このように年相応に振舞うさまは何だか微笑ましかった。
「ね、相澤せんせい」
まろい声にかどわかされて相澤は教壇で立ち止まる。
眠気を払うためか伸びをしてみょうじが上体を起こす。机で渦を巻いていた亜麻色の髪がすとんと重力に従って肩に落ちた。
「……どうした」
このみょうじなまえという生徒は優等生である一方で、特別な用もないのに相澤を訪ねに職員室にやってくることがあった。珈琲だったり、茶請けだったり。面向かって相澤が「ありがとう」と受け取るわけにもいかないのを承知で、机にぽんと置き去りにして帰る奇妙な行動。気まぐれや暇つぶしにしては自分への好意的な感情が滲むそれら。担任にもしているなら点数稼ぎか、なんて冷笑するが、みょうじは相澤以外にはとんと興味もないらしかった。
今日もその延長だと思っていた。だから彼女のあまりに冷ややかな声に喉が詰まった。
「トロッコ問題、ってご存じですか」
後ろに疑問符なんて付きやしない、優等生とはかけ離れた悪辣の滲んだ声色。相澤は瞬きをしてみょうじを見た。寒気がするほど鋭い眼光を備えた瞳が、誤魔化しは許さないと言わんばかりに煌く。
……突然何を言い出すのだろう。相澤はそう思った。優等生が他愛無い会話に選ぶとはとても想像できない単語に彼は静かに息を吐く。ポケットにだらしなく手を突っ込む。右手に、先日みょうじから押し付けられた目薬の感触があった。
知ってるよ。教壇から降りて、彼女が座っている机の右隣、窓際に腰掛けて相澤は教師として言葉を続ける。
「フィリッパ・フットが唱えた功利主義と義務論の対立を扱った問題だろ。倫理的・道徳的なジレンマを、人はどのように解決するのかを検証する、有名な問答だ」
『制御不能となった路面電車の先には、電車の到来に気が付かない五人の作業員。このままでは五人はミンチ肉へと変貌する。そして自分の目の前には分岐器があり、自分が進路を切り替えればこの五人は助かるが、切り替えた先にいる同様の作業員一人は確実に死ぬ』
"五人を助けるためならば、他の一人を殺しても構わないのか" 簡素な質問ながら、答えを絞り出すのが非常に難解な問題だった。
「はい。…………プロヒーローの、イレイザーヘッドに、お伺いしたいのです」
相澤先生なら、どうしますか。
口調は努めて優しく、けれど曖昧な回答は認めない優等生が呟いた。彼女の手元には一冊の教科書、そして提唱者たるイギリスの哲学者の名前が記されている。相澤とみょうじの唯一の接点である、ヒーロー倫理学に使用するテキスト。彼女は随分と先取りがお好きらしい。
「六人全員を救うよ」
「……相澤先生? 問題の意味を分かっていますか? どちらか片方しか選べないんですよ」
みょうじの形のいい眉が左右非対称になる。この教室に他のクラスメイトがいたのなら、彼女の口調はもう少し優しかったかもしれない。目の前の彼女は、主席生徒ではなく" みょうじなまえ "だ、という、本来ならば特段意識する必要もない、当たり前の要素を相澤は直感する。そうして息を吐くみたいに笑った。
「みょうじこそ、校則を忘れたか?」
「まさか。Plus Ultra でしょう」
このトロッコ問題は、みょうじにとってとても意味がある問いかけだった。二回目はあしらわれたりしないよう、真剣味が伝わるようにみょうじはその優秀な脳味噌を回転させて言葉を引き抜いてきた。
「……先生、意地悪ですね。両方なんて現実選べやしない事を知っていて、ましてやどっちか一方を選んだ経験だって絶対あるくせに」
言い訳にしかならないと分かっていながら弁解するとしたら、みょうじは疲弊していた。他の有象無象に相談したところで碌な解決にならないと彼女は分かっていたのだ。
顔を合わせるたびに進路を考え直すよう諭す担任に。相談なら乗るわよ、そう簡単に言ってのける副担任に。この時期でもお気楽に学生気分でいる友人らに。なまえを信じてるわ、なんて宣っては娘の悩みに真剣に向き合おうとしない両親に。変わらずへらへら笑っている兄に。
彼らは口をそろえて言うだろう。「優等生のみょうじが一体どうしたんだ!」って。
(揃いも揃って馬鹿ばっかり)
その時点で本質は異なっているのだ。「優等生が今になってぶち当たった疑問」なのではなく「疑問を抱え続けたからこそみょうじなまえは優等生となったのであり、依然疑問は解決していない」のである。
夏を先取りした、やけに湿気を含んだぬるい風が吹き抜ける。追随する、あの夜の記憶。肌を刺す熱風、女の叫び声、私の肩を強く抱いた腕、押し付けられた胸板から吸い込んだ慣れ親しんだ柔軟剤と肉の焦げる歪な匂い。――それから、あの赤い瞳と淡泊な低音。
(……もう、正解をくれるのは相澤先生しかいない)
だから、大げさに不機嫌を表に出して相澤に問うた。いいや、イレイザーヘッドに訊ねた。なぜって、彼こそがなまえの"理想のヒーロー像"を形成した人物だからだ。
教師は一つ、瞬きをする。無精ひげの生えた年相応に扱けた顔の彩度を、沈みゆく太陽の生む影が奪っていく。
「……ああ、あるよ。俺はヒーローだから、一を捨てて五を選んだ」
彼の脳裏を過ぎる記憶。止まない雨と曇天、崩壊した建物、落下する瓦礫。子供の悲鳴、砕けた左腕の痛み、続く地響き。それから、レンズの割れたゴーグルと螺子の飛び出た瓢箪型のスピーカー。
共にヒーローを目指し、事務所を立てる約束までした友人を喪った、生涯忘れることのない高校二年の夏。
「…………相澤せんせい、わたし、」
澱みのない声、言い切られた過去形。それをイレイザーヘッドは口元に微笑を湛えて紡いだ。
決して愛想がいいとは言えない教師の、その表情の変化をみょうじが見逃すはずがなかった。ああ、失敗した。そう思った。今自分は、尊敬するこの人の胸の内のやわらかい部分に、わざわざ無知を繕って刃を突き立ててしまったのだ。
彼の横顔を途端に見ていられなくて、みょうじは視線を机に落とした。広げたままのテキスト。トロッコと六人の作業員が簡素に描かれている。
「みょうじ、選ぶという行為には常に責任が伴うんだ。様々な倫理を振りかざす人間がいるが……結局、人一人の命の重さは一つ分でしかない。自分の掌の大きさをよく考えて、背負う数を決めるんだ」
わがままを言ってきかない子供の両肩を掴んで、静かに言い聞かせるような口調だった。とん、と靴音。相澤が窓際に座るのを止めた音だ。
「俺は今、君が何をそんなに悩んでいるのかは分からない。ただ、一人の教師として、問われたことにはきちんと答えるよ」
だからみょうじ、顔を上げなさい。
男のそっけない、けれど決して冷たくない声色に促されて深縹が持ち上がる。髪の色と同じ、甘いベージュに縁取られた瞳は教師を捉え、睫毛を擦り合わせた。少女の声は僅かに震えていた。
「その一が、自分にとってどんなに大切な人でも……?」
「………………ああ、俺はそうした」
あの日、相澤消太というヒーローは、親友と言う一を見捨てて、数多の市民と言う五を選んだのだ。
「そもそも、そんなの選ばなくてもいいようにヒーローを目指したつもりだったんだが……難しいもんだ」
自分がどんな表情で彼と会話しているのかみょうじは分からなかった。相澤の言葉を皮切りに二人の間に広がる沈黙を取り払いたくて必死に言葉を探す。高性能な脳味噌ならこういう時ほど回転して欲しいのに、錆のこびり付いたブリキ人形みたいに役に立たない。どく、どく。緊張に伴って放出されたアドレナリンが心臓を殴りつける。
完全下校を告げるチャイムが鳴った。
「……気を付けて帰りなさい。あまり夜更かしはしないように」
にべもなく告げた相澤がふらりと教卓に向かって歩き出す。ぼう、とその背を眺めて、彼が振り返る素振りを見せたので慌てて教科書を鞄に詰め込んだ。忘れ物がないか机の中を覗き込めたのは、普段の習慣の賜物だった。
「、さようなら、相澤先生」
「ああ」
髪を靡かせ足早に教室を立ち去ろうとした。みょうじがその背の三倍はあるバリアフリーの引き戸に手を掛けて。退室際、少女の線の細い体に声が投げかけられる。
「そうだ、みょうじ。……これありがとうな。よく効くよ」
右手に点眼薬を手にした相澤が、こちらを見て目尻をやわらげた。
よかったです。舌が硬直しているみたいに回らない呂律を、必死に叱咤して言葉を返す。みょうじは帰路を急いだ。一度だって振り返ることは出来なかった。
なんとか絞り出した「ただいま」を置き捨てて、なまえは一目散に自分の部屋に駆け込んだ。後で叱られるかなと頭の端で思いながらも制服のままベッドに倒れて枕に顔を埋めた。洗剤の匂いで肺を満たして、じわりと目元に滲んだ涙を殺す。
(相澤先生、せんせい……イレイザーヘッド…………)
憧れの人を傷つけてしまったのだという後悔と、今更ながらに露呈した自分の子供じみた側面に吐き気がする。彼の口元に浮かんでいた微笑と、幼子に言って聞かせるような声色がみょうじを雁字搦めにして離してくれない。意味もなくマットレスを拳で殴った。埃が宙を舞う。
(……はは、分かってたくせに。彼ならそう答えるって)
相澤消太は、イレイザーヘッドというヒーローである。彼は確かに"正解"をくれたのだ。ヒーローとしての最適解、まごうことなき模範解答を。それがみょうじなまえの蟠りを解き明かす、唯一の鍵にはなり得なかっただけ。本当に、ただ、その事実がここにあるだけなのだ。
わたしには、ヒーローになる資格が―――。
「、ごめん、なさい」
誰に向けた謝罪なのかなまえ自身よく分からなかった。寝台に沈めていた体を起こす。それから床に放っていた鞄を拾い上げ、中からクリアファイルを取り出す。二重線と訂正印の刻まれたものと無記入のものを机に載せ、消印の下とそっくり同じ言葉を書き連ねていく。
そのプリントの最上部には『最終進路希望調査』と、MSゴシック体を纏った文字が厳かに並んでいた。