咲かず実らず朽ちていく



「いつの時代も偏屈な生徒はいるものよね」


 唐突に落とされた皮肉交じりなミッドナイトの言葉に相澤は誤字脱字のチェックをしていた志望理由書から視線を持ち上げる。『救の ' が抜けている』と書き込んだ蛍光色の付箋紙を該当箇所に貼り付けてから回転椅子の角度を僅かに傾けた。


「そんなことより、担当クラスの進路希望調査は全て確認したんですか」


学生は夏休みに突入している一方で、教師側には三年生約220名それぞれが提出した進路調査用紙を確認する作業が残っている。普通科は大学名が、サポート科と経営科の約半分にはそこに企業名が混じり、ヒーロー科の殆どはヒーロー事務所名が記入されていることだろう。ミッドナイトは三年A組の副担任であり、エクセルにて志望状況整理を行っていたはずだ。

だというのに、彼女は一枚の進路希望調査紙を相澤に投げて寄越す。単なる教科担当の自分が盗み見て良いのか分からなかったが、彼は何気なく瞳を滑らせる。細い0.3芯の水性ボールペンで、みょうじなまえと書かれていた。


「…………は? これ、って……」
「びっくりよね…… みょうじさんが一般就職希望なんて」


どこか神経質さの滲むトメハネまで几帳面な細字は、ヒーロー事務所への事務員就職を綴っている。上から下まで、すなわち第三希望に至るまでサイドキックのサの字も見えない。自分の学生時代を顧みてもこんな進路を希望したヒーロー科がいたとは思い出せない。ミッドナイトも同じ意見らしく、深いため息と共に頭を振った。


「最終的に親御さんも含めて校長とも面談したんだけどもう決めたんです、の一点張りよ」
「あのみょうじなまえが……ですか?」
「ええ、"あの"みょうじなまえさんよ」


雄英きっての天才、勉学において他科に決して王座を譲らず、またヒーロー科独自の科目全てにおいても王冠を被り続けている彼女。教師間では、次世代のオールマイトも夢じゃないと囁かれる、"あの" なまえみょうじが、ヒーロー免許なんて1mmだって必要ない、この学び舎での過酷な勉強とも無縁な職業への就職を、希望している。

奇妙な事実に浮かんだ相澤の疑問符を敏感に感じ取ったミッドナイトが苦笑する。落とされた声には、隠しきれない落胆が滲んでいた。


「何度理由を尋ねても"私にはヒーローになる資格がなかったんです"としか答えてくれないの」
「……ヒーローになる、資格…………?」


例えばみょうじの返答が「怪我をするのが恐ろしくなった」だとか「誰かが傷つくのを傍で見るのが辛くなった」などの明確な理由だったら、教師陣も意固地になって問い質したりはしなかっただろう。実際、ヒーローになってから上記の理由を呟いて離職する輩は少なくない。現場で命を削り続けてようやく実感する無力さを乗り切れない人間は、むしろ正常なのかもしれない。感覚のどこかが麻痺していないと続けられない仕事であるという現実を、相澤は否定できない。

けれど、溢された理由は「資格がないから」。あまりに抽象的で不鮮明な、それでいて追及を跳ね除ける冷徹な回答。担任や副担任と面談を繰り返す中で、一体みょうじはどのような表情でそんな言葉を紡いだのだろう。想像しようとして、やめた。相澤は所詮"優等生"の彼女しか知らないからだ。


「天才の考えることは、本当によくわからないわ」


 みょうじなまえへの理解を、完全に諦めた言葉だった。

相澤を教員職へ熱烈に勧誘した先輩がこのような思いを吐露することに、彼は少なからず動揺していた。教師側に立つとまた新たな発見があるのよ、なんて電話口で声を弾ませていたミッドナイトですら、みょうじの一件に関しては、喜ばしい発見ではないらしかった。何度眺めたって文字は変わらない。


「なにがみょうじさんにそう思わせたのかしらね」


相澤は彼女の朴訥とした問いに満足な答えを用意できなかった。用紙をミッドナイトに返して立ち上がる。気だるげに両手をズボンのポケットに突っ込んで、右の指先に触れる感触を握り込んだ。


「…………珈琲、買ってきます。ミッドナイトさんは?」


ミッドナイトは首を横に振る。これ以上飲んだら胃が荒れちゃうわ。そう答えた先輩教師の目の下には、色濃く疲労が浮かんでいた。










 口を付けるまで加糖だと気が付かなかった缶コーヒーの、飲み口から覗く水面を見下ろして相澤は細く息を吐いた。仮眠室の隣に設置された休憩室、ベンチに腰掛けて冷たいそれを飲み下す。人工甘味料特有のねっとりとした甘さが喉の奥にへばりついた。


(…………天才の考えることはよくわからない、か)


天才の定義は「生まれつき備わっている、並外れて優れた才能。また、そういう才能をもった人」である。生徒あるいは教師が口々にみょうじの形容に用いるその単語は、ひどく難解で無慈悲な文字の羅列だ。

生まれつき備わっている、並外れて優れた才能。

彼女は優秀な生徒だ。筆記・実技どちらにおいても成績優秀。頭脳明晰。個性は増強でどの分野においても人の先を行く。何事にも遺憾なくセンスを発揮し、応用力とその機転によって解決策を見出していく。人望も厚く、人当たりも柔らかい。いつも溌溂としていて彼女の周りを取り巻く人影は尽きない。

これらの一体どこまでが「生まれつき備わっている」もので、どこからがそうでないのか、相澤には当然知る由もない。そこまで相澤は、みょうじなまえという人間を理解できていない。


(例えば、俺にみょうじのような才能が備わっていたのなら)


馬鹿げた妄想だと分かっている。ただ、学生時代の、そして恐らく今の自分が、渇望しているであろうそれらを彼女は持っているのだ。

……それが、相澤はひどく羨ましかった。

相澤は天才ではない。血が滲むどころか骨が肉を割って覗くような、愚直なまでの努力を経た上で、凡人にしてヒーローという地位を勝ち取った人間だ。卑屈だと称する人間がいるかもしれない。けれど、全て事実だ。

個性は抹消、相手ありきの個性でそれも「個性を使えなくして素の状態に戻す」という応用も何もない力。体格に特別恵まれたわけでもない。むしろ筋肉が付きにくくて体力育成では苦汁を舐めた方だ。新しいことを習得するのに人の倍時間が掛かるくらいには不器用で、生命線である捕縛布の操作にも六年という歳月を有している。

幾重にも立ちはだかる壁を地道にピッケルで穴をあけてから崩すような相澤と、にこりと微笑みながら揚々と飛び越えていくみょうじ。思えば相澤の周りには彼女には勝らないものの、似たような天才肌が多かった気がする。いつだって相澤は彼らを見上げ、胸に巣食う悔しさを燃やして努力を重ねてきた。

 夢物語みたいな来世を望んで屋上からワンチャンダイブ? そんなことをするほどもう幼くないけれど、けれど! くだらない空想をするくらいにはまだ青臭い精神をしている。

もし、「ヒーローになるべし」とありとあらゆる才能を持って、この世に自分も生まれ落ちていたのなら。


(俺は……絶対に、ヒーローを諦めたりしない)


一体何が彼女にそのような結論を導かせたのか、副担任であるミッドナイトですら分からないのだから相澤が答えを導き出せるはずもなく。

脳裏を過ぎるみょうじとの交流。気まぐれに教員室を訪れて文字通り置き土産をしていく昼休み。四限目の終わりに保健室まで彼女を押し込むために連れ出した、資料室への歩み。意図せず立ち聞きした夕暮れのみょうじの声。意味深な、けれどそうとは悟らせないように拙く繕った放課後の問答。

少なからず、どの場面でも自分は教師として、またその道の先輩であるヒーローとして、優秀な卵に接してきたはずだった。日常を忙しなく駆けていく中で脈略なく降り注ぐ、どうしようもない不安の恐ろしさを、同じく駆り立てられるような焦燥と共に学生時代を過ごしてきた相澤はよくわかっているからこそ、みょうじの背中をヒーローとしての光差す方へ押してやろうと尽力した"つもり"だった。


(所詮は自己満足だった、ってわけか)


 自嘲が生んだ振動が珈琲を揺らした。缶を傾けて中身を一気に飲み干した。相も変わらずしつこい甘味を唾を嚥下することで落とし込んでいく。途端に身軽になった缶をごみ箱に投げ入れる。しかし角度がよくなかったらしく、音を立てて地面にスチール缶が転がった。舌打ちを一つ放ってベンチに根を張っていた尻を持ち上げる。

幸いにも床を汚さなかった缶を拾う。その拍子に伸ばしっぱなしの見苦しい黒髪が視界に影を落とす。意味もなく瞬きをして、それからゴミ箱へ空き缶を押し込んだ。


(……もし、もっと早くみょうじに、ヒーロー以外の道を示せてやれていたら)


この際、根拠も理由も後回しだ。

「おまえには資格がないから、素質が足りないからヒーローは諦めろ」なんて、切り捨ててやれたなら。……彼女は苦しまなかったのかもしれない。

みょうじのような生徒が短絡的に「自分には資格がない」と口にしないことくらいは相澤にだって分かる。むしろ、一心にヒーローを目指すクラスメイトに囲まれて日々を積み重ねていく中で、どうしたって拭いきれないその感情は彼女の心を蝕んだに違いなかった。いつからその否定的な決意を胸に抱いていたのだろう。針の筵に座り続けて、それでも優等生であり続けたなまえの苦心は計り知れない。

教師の役割は生徒の背中を押してやることだと相澤は漠然と考えていた。なにせ教員人生一年目、まだまだひよっこである。ただ、みょうじのこの一件は相澤に「将来への選択肢が絶えない生徒たちの潜在性を精査し、もし能力がそぐわないのであれば例え本人が望んでいなくても、また可能性に気が付いていなくても、道を絶ってやるのも教師の役目だ」という別の価値観を与えた。


(……本当にみょうじは天才だったのだろうか)


考えても仕方がない。だって天才を厳密に定義する評価表も証明する数式もこの世には存在しないのだから。

 休憩室を出る前に、いつも通り目薬を差そうと右のポケットから点眼薬を取り出して初めて、碌に中身が入っていないことに気が付いた。奇しくもみょうじなまえに"押し付けられた"それは、薬局で手に入るものとは思えないほど効能が良かった。気泡交じりの薬を滴下し、完全に空になった容器を別のごみ箱に捨てようとして……相澤はポケットに押し込んだ。

次に同じものを買うときにパッケージがないと困るに決まっている。彼女が新しい目薬を押しつけに来る日は、恐らく来ないだろうから。


writer is 嗄声