「料理かぁ、消太ファイト!」


 日々を慌ただしく生きていく中で最も幸福なこととは、朝起きたら既に食事が出来ており、その香りで眠りから目覚めることである。

ぱちぱち、じゅうじゅう、とんとん。食材と調理器具、それからスペシャルアシスタントのガス火と水道水様によるグランワルツの音で目覚めるのも同じくらい良い。はたまた「おい、飯出来たぞ」なんて恋人が朝寝坊していることへの不満と、朝食への感想を期待する気持ちが混ぜこぜになった彼氏に起こされるのも悪くない。

――――尤も、名前がそんな朝を迎えられるのは誠に残念なことに、だいぶ先になりそうなのだが……。





 静かに箸を置いた名前を、対面に座する相澤は緊張に満ちた表情で見つめていた。ごくりと唾を飲み込むさまからも彼の張り詰めた様子が伝わってきて、名前は尻がむず痒くなった。


「……ふむ」


整然と並べられた朝食――ほかほか炊き立てご飯、豆腐とわかめのお味噌汁、ほうれん草と胡桃の胡麻和え、鶏肉と筍の煮物、それからお砂糖の入った甘い卵焼き――は、それぞれ一口ずつ箸を付けた形跡がある。対して相澤は「待て」を指示された犬のように、ただただ名前の反応を窺っている。茶碗から立ち昇る湯気が、起き抜け特有の冷たい朝の空気にじんわりと溶けていく。


「ええっと、これは正直に言っていいやつかな?」
「? ああ」
「今日の朝食は………………30点、かな」


相澤の頭部に雷が落ちるのが、名前にははっきりと見えた。

本当にこういうマイナス評価を伝えるのは心苦しい。猫ちゃんがしゅん……と落ち込んで尻尾と耳がへこたれるように、相澤ものそのそ背を丸めてしまった。罪悪感という三文字が容赦なく心の柔らかい部分に突き刺さるのを感じながら、それでも名前はこの事実を彼に伝えなければいけなかった。


「あのですね、問題は卵焼きなんですけど……」
「………………ん」


教育者の端くれである相澤は、失敗は成功の基であり次の成功のためには講評が不可欠であることくらいよく分かっている。だが、前日に寝落ちしてしまって半分までしか覚えられなかったヒーロー関連法の小テストを受けるのが心底恐ろしいように、この不出来な朝食について――しかも元より辛口な名前から――批評を受けるのは中々に勇気のいることだった。その不機嫌が下唇に反映されてむいっと突き出てしまうのは、もう相澤にはどうしようもなかった。


「消太さ、また卵握り潰したでしょ? あのね、殻が混じっててじゃりじゃりするの」
「…………すまん」


味見してないでしょ? と言われて相澤はこっくり頷いた。彼女の指摘通り、使った卵三つのうち二つは力加減を誤って握り潰してしまったのだ。指の間をすり抜けていく潰れた黄身と白身、そして何より粉砕された殻に初っ端から気が遠くなったのは言うまでもない。一応菜箸を使って見える範囲で殻は取り除いたつもりだったのだが、結果として不十分に終わってしまった。

以前ホットケーキを一緒に焼いた時――やはり相澤は卵を押し潰した――、彼女が炭酸カルシウムの塊を取り出すのに布巾を使って卵液を濾していたのを見た。面倒でそれはしなかったのだが、名前の反応を鑑みるに手間は惜しんではいけなかったようだ。


「それから味がかなり濃いかなぁ。出汁醤油は大匙一でしょ? ちゃんと測った?」
「おう」


計量に関しては前回肉じゃがを作った際に口酸っぱく言われたので、今度こそ相澤は自信満々に頷いた。同じ失敗――彼の場合は目分量で測る――は繰り返さない。捕縛布の訓練だって、昨日できなかった10このうち次の日に1つは出来る様になるまで練習すれば、いずれ全てができる様になったのだ。そういう意味で、相澤は努力を怠らない人間だった。だというのに、名前は眉毛を顰めて卵焼きを突いた。


「……ほんと?」
「んなしょうもねぇ嘘ついたって仕方ねぇだろ」


名前はおもむろに食卓から立ち上がり、恐る恐るシンクを覗き込んだ。俎板の上に鎮座する包丁、焦げ跡の残るフライパン、わかめが縁にこびり付いた小鍋、卵液が僅かに残ったボウル……。それらを押しのけると、ようやく一本の"匙"が見つかった。


「……………………もしかして、大匙って…………これ?」
「うん」


見紛うことなく相澤は首を縦に振った。名前はそっとスプーンを摘み上げる。出てきたのはサービススプーン、主に大皿料理の取り分けに使用する大きさ約22cmの巨大スプーンである。その奥に粒が付着したままのアイスクリームスプーンを見つけてしまい、名前は眩暈がしてきた。


「うんじゃなあぁぁぁぁぁい!! 嘘でしょ……消太ちょっとこっちおいで……!」


毛玉の付いた黒いスウェットの裾を引っ張って、名前と相澤はキッチンに横並びになる。調理台に備え付けられた引き出しを引けば、中を引っかき回さずともお目当てのものは見つかった。


「あのね、大匙ってね、ここにね15って書いてあるやつなんだよ」
「お、書いてあるな」
「うんうん〜〜〜〜この流れ一昨日もやったよぉぉぉお」


まるで初めて聞いたという顔を彼がするので名前は思わず泣きたくなってしまった。優秀な脳味噌を持っているくせに、相変わらずそのキャパの1%も自身の生活に割く気配がないのが彼女には耐えられなかった。ヒーローと教師と二足の草鞋を履く、その大変さは素人ながらに理解しているが、いつだって彼の勘定に相澤自身が含まれていないのが名前は許せないのだ。少しでも生活が改善するようにと半ば相澤の反対を押し切るように始めたこの同棲生活。その効果を彼女が体感する日はやってくるのだろうか……。

男性が料理をする、と言えば彼の卒業生の中で非常に料理上手な生徒がいたらしい。現在プロヒーローとして活躍しており、大爆殺神・ダイナマイトなんていう厳つい名前に似つかずそういう細々とした作業がとても得意なんだとか。「ちょっと消太、彼に料理の一つや二つ教わってきなさいよ」と一度唆したことがあったのだが、「アイツ今、女に貢ぐので忙しいらしいからな」なんていう、教育者の口から信じがたいセリフが飛び出したので、生憎この案は没になってしまった。それにしても大匙小匙ぐらいは私に貢がなくていいので覚えてもらいたいものだ。

 ちなみに本日の朝食で相澤が担当したのは味噌汁と卵焼きのみであり、残りのメニューは全て名前が前夜に仕込んでいた。あとは相澤が温めるだけ。電子レンジでチンしかしなかった男が、コンロを使っておかずを温め、その際に換気扇も回すようになっただけで進歩と呼んでいいなら、名前の努力が実るのもそう遠くない、のかもしれない。


「……分かりやすいように計量スプーンはこっちに出しておこっか」
「ああ、そうしてくれると助かる」
「よし今置いたからね。明日はこれでお醤油とお砂糖測ってね」
「分かった」


計量スプーンを調理台横に設置したペン立て――菜箸を入れているゾーンだ――に差し込んで、二人はいそいそと食卓に戻った。折角の朝食が冷めてしまう。相澤は件の卵焼きを放り込んで一度歯をかみ合わせただけで、硬く絞った雑巾のように深い溝を眉間に刻んだ。


「じゃりじゃりするな」
「うん」
「…………名前、食わなくていいぞ」
「まさかぁ。ちゃんと食べるよ。消太が作ってくれたんだし」


相澤が卵焼きの皿を抱え込もうとするので、名前は尻を浮かせて卵焼きを奪取しなければいけなかった。トラ柄ねこちゃんのような焼き色をしたふかふか卵焼きを舌で押し潰すと、やはり圧倒的な異物感が伝わって来る。それでも名前は、艶々と光る白米と一緒に卵焼きを咀嚼してこっくり飲み込んだ。濃い目の味付けもお米と一緒に食べると丁度いい。


「お前なぁ、文句はぶつくさ言うくせにか」
「うん。このお口は食べるのにも喋るのにも使うからね」
「………………次はもっと上手くやる」
「楽しみにしてる! それにね、絶対消太ならできるようになるよ。だってね、お味噌汁は美味しくなってる! ちゃんと味噌も溶けてるし」


昨日の味噌汁……それはそれはすごかった。例によって相澤は味見をしないので、完飲すれば高血圧まっしぐらの超濃味お味噌汁が爆誕していた。箸で摘み上げるほどに溶け残った味噌に名前は気が遠くなったものだ。一応味覚はちゃんとしているようで、相澤も箸を付けてから「一体なぜこんなに味が濃いのか?」という疑問符を山のように浮かべていた。

それが打って変わって今日はちょうどいい濃さだ。入念に溶いたのだろう、味噌の塊も見つからない。昨日は具のバランスが味噌汁と言うよりわかめの味噌浸しという感じだったのだが、それも改善されている。やっぱり彼はやればできる男なのだ。


「……おう。味噌汁は、結構頑張った」
「えらいえらい。明日も消太のお味噌汁食べるの楽しみだな〜」
「具、何がいいんだ」
「お? チャレンジャーだねぇ。そうだなぁ、油揚げとかかな」
「ん、分かった」


きっと明日は油抜きをしていないテッカテカの味噌汁が食卓に並ぶのだろうが、なんだかんだ完食しちゃうんだろうなぁ、とちょっと先の自分の姿が簡単に想像できてしまって名前は茶碗の陰でこっそり笑った。一滴も残らずに飲み切られた味噌汁椀を見て相澤が目元を緩めたのが、まだ柔く湯気を吐く緑茶に反射していた。



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