「洗濯かぁ、消太よろしくね」
相澤は困惑していた。性根の腐った敵と対峙することや生徒の扱いに困ることはあれど、こんなことに悩まされるのは初めてだ。珈琲のために湯を沸かしている間に洗濯機を回してしまおうと洗面所に向かったまでは良い。苗字名前監修による家事検定・洗濯編十級の相澤でもやりやすいように、洗濯籠は二つに分けられている。Tシャツやタオルと言った汚れが少ないものが入った大きい籠と、主に相澤のコスチュームが在住する羽目になる重度の汚染があるものが入ったバケツである。「漂白剤はまだ消太には早すぎる」とのことで相澤が洗濯機を回すときは大抵籠の方を洗うことになっている。今だってそれに従って、洗濯機の中にそちらをぶちまけたのだが、問題はここからだった。
ブラジャーが、あるのだ。
薄紫の生地に黒の薄布で装飾が施された女性物の下着。当然ながらこれが男物である方が困るし、同棲している名前の物以外の何物でもない。しかし、しかしだ。相澤にはブラジャーの扱いが分からない。
恐る恐る摘み上げると肩紐の細さに眩暈がした。流石にホックの外し方は分かる――最初は外し方が分からず薄闇の中で名前に爆笑されたのは苦い思い出だ――。けれど洗濯の仕方は分からない。今までの相澤担当の洗濯物に名前の下着が入っていたことは一度もなかった。
(下着だけ別で洗う……いや、洗濯機を使わないのか?)
例えば捕縛布に付いた血液は流水である程度落とすように、下部にワイヤーが入っているブラジャーもそうするべきなのだろうか。一先ず洗濯槽にぶち込んだ衣類を両手でかき混ぜて、他に下着が混じっていないか確かめる。
なかった。いや、この紫のやつと対になっているはずのパンティはどうした。相澤は疑問に思ったが、ズボラな名前のことだ。部屋の隅でシロアリの蟻塚みたく積み上げられた抜け殻を捜索したら出てくるだろう。
(確かそうだ。マイクが手洗いしてやってるだとか何とか言ってた、よな……?)
以前名前の仕事用ブラウスを洗濯機に突っ込んだところ「消太の履いてる3枚で1000円のトランクスじゃないんだから!」と大層叱られたことを愚痴った際に、そんな話を耳に挟んだ気がするのだ。
『なんかよォ、いつもマイハニーのふわふわおっぱいを守ってくれてサンキューなァ、って思いながらブラ手洗いしてっと、ブラジャーの方も"丁寧に洗ってくれてありがとう! ひざしさん!"っつってくれてる気がすんだよな』
……とか、なんとか。酒の席だったから聞き流していたはずだが、シラフではそうそうお目にかかれない単語の羅列を、相澤の優秀な脳味噌はきっちり記録していたらしい。旧友ながらに頭の痛いセリフだ。もっとも家事スキル的に山田が執事ならば、相澤は見習い召使がいいとこなのだが。
兎に角、するべきことは決まった。ブラジャーだけは洗面器に退避させ、部屋着やらバスタオルが詰まった洗濯槽にジェルボール洗剤を投げ込む。「計量しなきゃいけない洗剤も消太には早すぎる」と配慮らしい。軽快なスタート音と共に、水が注がれ始める。
(くそ、癪だがアイツに聞いときゃあよかったか? いや流石にそれはないな……)
相澤は熟考の末、何を血迷ったのか台所からたわしを片手に洗面所に戻ってきた。
彼の名誉のために補足しておくと、相澤としては「肌着→汗とか吸ってるだろ→ならちゃんと擦って洗う方がいいんじゃないのか?」との思考を経てこの選択に至ったのだ、洗濯だけに。洗面器いっぱいのぬるま湯と中性洗剤。右手にたわし、左手に薄紫のブラジャー。いざ、擦り洗い……!
「ちょぉぉっと消太ァ!! ストップ!! たわしはだめェッ!!」
「!!!!」
背後に置かれたきゅうりにびっくりした猫ちゃんみたいに、相澤は動きを止めた。硬直具合もそっくりだ。たった今目覚めたばかりですという風貌の名前は乱れに乱れた頭髪を気にする素振りもなく、むんずと相澤の手からブラジャーを救出した。
「ハァ、ハァ、ハァ…………よかった、無事なのね私のブラジャーちゃん……」
いくら勝負下着じゃないとはいえ、じゃかじゃか洗えるからと相澤が愛用しているウニクロのパンツと同じ――たわしを持ち出されたことを思うと、上履きか何かと同じだと思っているのかもしれない。どうしよう、それはもっと困るのだが――扱いを受けるのは、一介の女性として耐えられない。窮屈な仕事着の中で唯一オシャレを楽しめるアイテムなのだ、大事にしたい気持ちが湧くのは当然のこと。
「はい消太君、この可愛い下着には何が付いてますか」
「? 布」
「…………この黒色の薄くて可愛い生地はレースって言うんですよ〜〜。それでですね、超繊細素材のレースちゃんをたわしで擦るとどうなりますか」
「……! だめになっちまう」
「そうだよね〜〜〜〜〜普通に手で揉み洗いしてくれたらよかったんだよ〜〜〜〜〜〜!」
名前には相澤の頭に豆電球が浮かぶのが見えた。仮にも国内有数の難関校を卒業し、なおかつ同校で教鞭をとっている教師とは思えない思考回路だ。
何はともあれ、未遂で済んでよかった。名前はブラジャーを相澤のバケツ――きっと彼は注視していないから気が付いていないだろうけど、このバケツ、実は二つ重ねてあって名前はここに下着類など、頼めそうにない洗濯物を溜めていた――の下に片付けた。
「おはよう、名前」
「ん、おはよ」
互いの職業柄、二人は寝室を分けていた。特に名前は昼夜逆転が日常茶飯事なので、相澤の貴重な睡眠時間確保のためにそれは致し方なかった。代わりに、その日にする初めての挨拶はハグと一緒にするのをルールにした。体温に触れあう機会は、寂しん坊同士の二人に欠かせない時間だ。
相澤がそっと両腕を広げたので、名前は空いた腋下の空間に腕を差し込んで密着する。隙なく鍛え上げられた男の体とどこもかしこも柔らかい女の体は、まるで元から一つだったみたいにフィットするから不思議と安心感が湧いてくる。寝起きの名前は自分よりも温い体温をしていて、相澤は項に唇を寄せるみたいにその熱を享受した。
「あのね、別に女性物の下着の洗い方は覚えなくていいから。流石にそれは私やるよ。籠、私が間違えてたんだよね? ごめんね、消太」
「気にすんな。これを機に覚える」
「おお、珍しくやる気じゃん……!」
「…………いや、たまには感謝を伝えないとだろ」
「?? 何の話?」
抱き合っていて顔が見えないのを良い事に、相澤は静かに黙祷を捧げる。何の警戒もなしに押し付けられた双房は、たわわに実った柔らかさの向こうから彼女の鼓動を伝えてくれている。ありがとう、ブラジャーさん。いつも名前のふわふわを守ってくれていて。そして寝る時はブラジャーを付けない派の名前にも大感謝だ。
無精髭がむず痒かったのか、名前が腕の中で身動ぎする。仕方なしに相澤も姿勢を変えると、やけに草臥れたシャツの襟が目に留まった。思えば袖も随分と擦り切れているし、裾は便所の時に困りそうなほど長い。
「……名前、これ俺のTシャツだよな」
「うん。おうち用のやつなかったの」
「おい、だからって人の服勝手に着るな」
「え〜〜〜〜? 彼シャツ萌えない?」
「………………そういう問題じゃない」
「ケチ。だって言ったら貸してくれないじゃーん」
相澤が貸すのを好まないのは返って来ないからだ。自分の着る服が無くなる。名前は家のあちこちに、まるで痕跡を残すみたいに服を点々と残していく。何故だか絶対に洗濯籠には出さないのだ。それらを逐一相澤が回収してそれから洗濯するので、油断しているとあっという間に半裸で一日を過ごす羽目になる。
「うるせぇ。いいから溜め込んでる抜け殻サッサと出せ」
「えー……う〜〜〜〜〜ん……ごはん食べたらねぇ」
「ったく……」
今日も服を脱ぎ散らかしたまま出勤する名前の未来が見えてしまったので、相澤は仕方がなく彼女の部屋まで服を回収しに行くことにした。手伝う気はないくせに邪魔する意欲だけはあるらしく、名前は相澤の腰に腕を回して、半ば引き摺られるような形でくっついてくる。呑気に「くっつきむし〜」なんて宣うのが馬鹿らしくって、苦笑したまま、結局彼女の好きにさせてしまった。
密着しているのだから大きな声を出す必要はない。かといって、内緒話するみたいにひそひそ声を出す必要もないのだけれど。洗濯機がゴゥンゴゥン唸る音と、火にかけたままのヤカンが湯気を吐く音。鳥の囀りには敵いやしないが、密やかで愛おしい生活音が、静かに一日の始まりを奏でている。
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