「掃除かぁ、消太おねがぁい」
唸り声を顰めた掃除機を片手に、相澤はようやく一息吐いた。ぴかぴかに磨き上げられた廊下と塵一つない部屋は見ていて清々しい。相澤が一人暮らししていた時より家具はずっと増え、その分掃除の手間も増えたが目くじらを立てるほどではない。名前がリビングのソファでごろごろと月刊石材――石材、すなわち墓石特集の月刊雑誌である。もう名前の読書傾向にツッコミを入れるのは高校の時点で諦めた――を熟読している横で、勤勉な相澤は部屋の掃除だけでなく風呂掃除まで終わらせていた。
元より一人暮らしの経験がある相澤にとって掃除だけは得意分野である。フローリングワイパー派か雑巾がけ派で揉めたり、水回りに関してはどうしても甘くなってしまう節はあったが、最終的にシンクだけは名前が担当することで落ち着いた。洗面台はポンッと落とすだけの洗剤が非常に優秀であったことから、キッチン以外の水回りは全て相澤が担当である。同棲しているのに家事の配分がおかしい? そんな話は今更だ。
「しょーたー! 次こっち掃除してぇ」
"石屋が見た世界の石の遺跡 エジプト編"の活字を一心不乱に追いかけていた名前が、掃除機の音が止まったのに気が付いてそう鳴いた。パジャマからは着替えているものの相変わらず締まりのない部屋着を着てソファに寝転がっているようでは、ベッドの中にいるのとそう変わらない。
「お前なァ、少しは手伝うとかしたらどうだ」
「やだー。自分でやるの怖いもん」
掃除に怖いもクソもあるか、と嚙み合わない返答に相澤が目を研ぐと、名前の指先に綿棒が挟まっているのが見えた。どうやら我が家の女王様は「耳"掃除"をしろ」とのご命令らしい。ベランダの掃き掃除から始まり、部屋の隅々まで掃除機を引き摺った後に何かと思えば耳掃除ですか……。相澤は彼女にわざわざ聞こえる様にため息を吐いて、それでも掃除機を仕舞い込んだ後、ソファに腰掛けて自身の太腿を二度叩いた。名前は名前で、先程まであんなに熱中していた雑誌をあっさりとソファテーブルに投げ捨てている。
「おら、こっちこい」
「えっ硬い……もっとふわふわのがいい…………ああああ嘘です嘘です、消太のガチガチ太腿枕最高ですから落とさないでぇッ!」
「次はないぞ」
「ウッス」
躊躇なく預けられた頭は両太腿の幅にすっぽり収まった。固いと文句を言うから立ち上がろうとしたのに、今度は落とさないでと泣き付かれる。髪が耳の下で撓んでこそばゆいのだろう。名前が何度も身動ぎするので相澤はそっと髪を梳いてやった。奥の方が痒いの、ともじもじする割に名前が大人しくする気配はない。
「わぁ立派なヘソ毛」
「ッ! 耳掻きされる気あんのかッ?!」
「あるあるー。わぁ〜〜腹筋もガチガチだぁ。つまんないの」
現に相澤のTシャツを捲って体毛の濃さを揶揄ってくる始末である。やっぱりその後頭部を床に叩きつけてやろうか、とも思ったが、彼女が裾を握り込んで目を閉じたので、彼は渋々綿棒を構えた。
個人的には他人に耳かきをされる方がよっぽど怖いと思うのだが、名前はそうじゃないらしい。相澤の臍に鼻頭を埋める勢いでくっついており、閉じられた瞼にも皺が寄っていない。同棲していても分からないものだな、と綿棒をそっと耳殻に沿わせる。
「痛くないか」
「へーき。あのね、外っ側が痒いの」
「外ってどっちだ」
「んん〜〜? あのねぇ、うーん、あ、そっちそっち」
自分の物とは違ってやや湿った耳垢はあっさりと綿棒に絡んでくれる。痒いと本人が主張する割には汚れていない耳を、ドライアイを酷使しながら覗き込む。ライトを片手で持って耳孔を見やすくしてくれるとか、そういう協力姿勢は名前には皆無だった。ただ、無防備に預けられた体重や緩み始めた口の端を見てしまうと、彼女の横暴な態度もなんだか可愛らしく見えてしまうのだから困ったものだ。
「うん…………うん、そうなの、そこ。……うん、そこなの…………」
「お。名前、デカいの取れたぞ」
「ねぇしょうたぁ、そういうのいちいち言わなくていいんだよぉ…………」
太腿と触れている名前の顔がふっと熱くなる。眠くなっているのかもしれない。ダンゴムシのように体を縮めて苗字は鼻腔に母音を擦り付けるように甘えた声を出す。良く伸びた語尾がその良い証拠だ。縒れまくった裾は一層握り込まれてしまい、相澤のスエットには大きく皺が寄っている。離せと言っても聞きそうにないので好きにさせていた。彼は静かに指先を動かした。
耳の中の産毛と綿棒が擦りあうことで出るゴワゴワ、ガサガサとした音が名前の聴覚を満たしていた。相澤の太ましい脚によって密閉された右耳のおかげで、全ての音が水の向こうで鳴っているような感覚がある。毛玉の付いたズボンは少しこそばゆいが伝播してくる熱の方が愛おしくて動きたくない。服越しに伝わる微弱な振動は、相澤の心拍によるものだ。ひいては呼吸の上下も触れた面から流れ込むように伝わって来る。
体温も振動も、ひとが生きている証だなぁ。そんな当たり前のことを名前は無意識のうちに噛み締める。自分は一体いつまでこの熱を受け止めることが許されるのだろうか。彼が一通りの家事を身に着け、自分自身の体と心を大切にできるような生活習慣が浸みこむようになったなら。その隣に自分の居場所はあるのかな、ってちょっと嫌な想像が脳裏をかすめた。名前は自分に言い聞かせる。だいじょーぶ、だいじょーぶ。消太に消太自身を大事にしてほしくてこの家に転がり込んだのだ。ヒーローという職を捨ててまでそうする価値があると思ったからそうしたのだ。だから大丈夫。もしそうなったとしても惜しくない。……寂しくない、っていうのは嘘になるけど。
「名前、終わった。反対」
「………………」
「名前? おい、さっさと反対向け」
「ん〜〜〜〜……もうちょっとこのままぁ……」
相澤はもう一度ため息を吐いて、仕方なしに綿棒をゴミ箱へ向かって放り投げた。美しい放物線を描いて難なく役目を果たした綿棒は吸い込まれていく。赤子のように膝の上でむずがる名前の頭を相澤はそうっと撫でた。薄っすらと膜の張った瞳が無精髭を見上げて、緩慢に閉じられた。このまま蕩けていきそうな彼女を見ていると何だかこっちまで眠くなってくる。
カチコチ、時計が静かに時を刻む中、その秒針に折り重なるように二人分の寝息が昼下がりのリビングに零れ落ちた。
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