穏やかなひと時



『心地がいい』というのは、自分の実感よりも遥かに気が休まるものらしい。元来会話を楽しむ方ではなく、無駄話をするくらいなら眠った方が余程合理的だと捉える性分だが、しかし彼女と話す時間だけはどういうわけか特別だった。




「もう真っ暗ですね」


薄いカーテンの向こう。四角く縁取られた夕暮れは、いつの間にか、墨と瑠璃を混ぜたような濃い群青へと変わっていた。

彼女の話を聞いていると、つい時間を忘れてしまっていけない。といっても特別おもしろい話をしているわけではない。たとえば日向ぼっこが出来るベストスポットや食堂のおすすめメニュー、新しく仕入れた本における自己解釈等々。他愛もない、いってしまえばどうでもいいことばかり。これがマイク相手であれば、くだらないと一蹴していただろう。ただ彼女の傍では、ずっと聞いていたくなる。鼓膜にすうっと馴染むまろい声、穏やかなトーン、優しい速度。まるで子守唄。胸の内側へ染み入っては全身の力をさらっていく。

一般的に癒しと呼べるひと時が終わってしまう名残惜しさを喉元ギリギリで押しとどめる。

カラのティーカップを手に腰をあげようとすれば、慌てて立ち上がった彼女の手が、制するように肩へ添えられた。白く細く、あたたかく。傷ひとつ見当たらない女性らしい手。


「私がしますから座っててください」
「そういうわけには」
「いいんです。もっと気楽に居てください。相澤さんは、お客さんなんですから」


綺麗に微笑んだ彼女は、そのまま俺の肩をぽんぽんと叩いて、食器を洗いに行ってしまった。このまま待つか、先に帰るか。思考しかけてやめる。どちらも失礼に当たるような気がする上、なんとなく落ち着かない。結局厚いカーテンを閉めるため、腰を上げた。彼女が存在する空間は不思議と体が軽かった。




広い図書室の戸締まりを終え、そろそろ帰ろうかと振り向けば、丁度司書室から小さな黒髪が覗く。手にはカバンを持っているあたり、帰り支度も済んだのだろう。これから二人揃って職員室へ鍵を返し、俺はそのまま明日の準備、彼女は寮へと帰るのがいつもの流れだった。


「少しのつもりだったんですけど、長く呼び止めてしまってすみません……」
「いえ、いつもゆっくりさせてもらえるので助かってます」
「そう言っていただけると嬉しいです」


ふわり、ふわり。花のように微笑む綺麗な笑み。
蛍光灯の下でもよく映えるそれは、相変わらず眩しくてあたたかい。

図書室の鍵を所定の位置にかける。


「みょうじさん」
「?」
「次は送っていきます」


振り向いた瞳が、丸メガネからこぼれ落ちそうなくらい大きく丸まる。そうして至極嬉しそうに頬を緩め「楽しみにしてます」と、手を振った。