芽吹く



どうしてこうも雑務が多いのか。教職に就いた頃、まだ学生だった時分に思い描いていた就業内容と随分かけ離れていることに、よく辟易としていたことを思い出す。懐かしくはあるものの、出来ればお目にかかりたくなかった感覚が煩わしい。別にサボっていたわけではない。ただここ最近、あの清らかな図書室に通っていたからだろう。気付けば書類の山、山、山。思わず気が遠くなったのは言うまでもない。

こぼれた溜息が、やけに大きく反響する。キーボードを打ったり紙面を擦ったり電話応対や話し声等々、いつも数多の音で溢れている職員室も、夜は静かだった。


まさか“次は送っていく”なんて偉そうなことを言っておきながら、残業が終わらないとは、なんとも居た堪れない。ペン先を走らせながら、とても嬉しそうだった彼女の笑みを思い浮かべる。罪悪感と共に浮上するこの落胆は、一体何に対してか。

……まあいい。考えるのは後にしよう。


そう思考を塞いでから、どれほど時間が経っただろう。肌で感じられるほど、ひんやり澄み始めた空気が揺れる。瞬間、ここで聞こえるはずのない細声が「相澤さん」と俺を呼んだ。


「おひとりなんですね」


顔を跳ね上げた先。扉から覗いているみょうじさんは目が合うなり、ふわりと微笑んだ。

何故、どうして。そんな疑問が口を突くより早く、喜んでいる自分がいることに気付く。会えて嬉しいなんて柄じゃないってのに、彼女の前ではどうも調子がおかしい。そう実感していながら、心の内は穏やかに凪いでいく。


「何か用事ですか?」
「いえ。残ってらっしゃるって聞いたので、差入れをと思いまして」
「ああ、わざわざすみません」
「とんでもないです。お邪魔しますね」


人がいないことを再度確認し静かに歩み寄ってきた彼女は、トートバッグから両手のひらサイズのタッパを取り出した。透けて見える中身はクッキーか。そっと差し出されたそれはまだあたたかく、触れ慣れない温度に手作りらしいと知る。


「小腹に丁度良いものにしてみました。学校で夜ご飯なんて、味気ないかなって」


ふわり、ふわり。

仄かに色付く桜色の頬。女性らしい細やかな気遣いが、今度こそ余計な隔たりを介さず純粋に嬉しく思う。謝罪ではなくお礼を伝えれば、やはり彼女も嬉しそうに、まるで花が綻ぶように笑った。


大きな丸いレンズの向こうで、優しく細まる瞳。

淡く、やわく、淑やかにあたたかく。決して奪わず掬い上げるように心臓を包むこれは、きっと”愛しさ”だった。