睡魔にまぎれる
夜の静けさに、澄んだ空気とほど良い糖分。人間、快適な空間では能率が上がるらしい。書類の山ひとつ半、思っていたより早く片付いた。
文房具をペン立てへ入れ、パソコンの電源を落とす。それから、みょうじさん、と呼びかけてやめる。未だ隣に居る彼女は、机に凭れながら船を漕いでいた。幾分か幼く見えるのは目を閉じているせいか。透き通るような肌に、睫毛の長さが際立って映える。このままずっと眺めていたいような、連れ去ってしまいたいような何とも言えない感覚を理性で諌め、揺蕩う肩を軽く叩いた。
「ん……?」
「遅くなってすみません。帰りましょう」
かろうじて頷いた寝惚け眼は、けれど殆ど開かない。さては覚醒まで時間を要するタイプか。
初めて知る意外な一面と無防備な姿にふつふつせり上がる優越感。反面心配でもあり、苦笑しつつ空いたタッパを彼女のトートバッグへお返しする。肩へ腕を回し立ち上がらせてやれば、猫の子ほどの体躯が寄りかかってきた。意識はまだ微睡みの瀬で揺れているらしい。これは支えて歩くより、抱えていった方が早いかもしれない。でも、誰かに見られる可能性もゼロじゃないと思考を閉ざす。俺だけならまだしも、彼女が下世話な話のネタにされてしまうのは抵抗があった。
「ほら、みょうじさん。起きてください」
軽い体重を支えながら声を掛ける。再び小さくこぼされた声は、ふわふわ浮付いていて。年上の男が触れているというのに、まるで警戒心のない姿に笑ってしまう。いつもこうなのか、俺だからなのか。たとえ後者であっても、手放しに喜べたものではない。けれど今の関係が崩れるくらいなら、何もしないままでいたかった。
みょうじさん、と再度呼ぶ。
当然寮まで送っていくつもりでいるものの、せめて自分の足で歩いてもらわなければ色々まずい。万が一マイクやミッドナイトさんに見られでもしたら、それこそ面白おかしく茶化されるだろう。明日からの平穏なんぞないも同然。何としてでも避けたい。
「みょうじさん、帰りますよ」
「ん、……はい……」
「はいって。ゆるゆるじゃないですか」
「んん……」
あまり擦っては赤くなる。
そう、頻りに目元を擦る手を掴んだ。
「……なまえさん」
身を屈め、覗き込んだレンズの向こう。さっき見惚れたばかりの睫毛がふるりと震え、やんわり上がる薄い瞼。曇りひとつない瞳に俺が映って――ふわり。とても眠そうに微笑んだ彼女の、やわらかそうな唇が動く。
「消太さん」
一瞬、呼吸を忘れた。