気化する泡沫



今にも消えてしまいそうな、けれど、揺らぐことなく鼓膜に届いた声が皮膚の下へ浸透する。肺を満たす、濾過された空気。体が軽い。日常のどこかで蓄積されてきた疲労が、ゆったり昇華していくような浮遊感。個性を差し引いても、きっとどこまでも純透明な彼女の存在こそが世界を浄化する。


「意外と照れ屋なんですね」


重力のままに流れていった髪を耳にかけてやれば、すっかり染めあがった頬が覗いた。どこか焦ったように身を竦め、恥じらいながら笑う姿が愛らしいと思う。

先に名前を呼んだのは俺の方だったわけだけれど、どうやら覚えていないらしい。それならそれで、このまま黙っておくとする。気付かないふりが難しいほど日に日に増しているこの気持ちは、やはり伝わらない方がいい。


「消太さん」と躊躇いがちに紡がれた自分の名前が、なんとも心地良く響く。返事をする間もなく手に触れた慎ましやかな指先が皮膚を滑り、奥の司書室へと連れられた。座っててくださいと促されるままに腰を下ろせば、たったそれだけのことなのに、とても嬉しそうに微笑むのだから敵わない。


「今日はコーヒーを持ってきたんです。お淹れします」
「いつもすみません」
「とんでもないです。ミルクはどうしますか?」
「ブラックで大丈夫です」
「ふふ、だと思いました」


校舎の喧騒から遮断された室内に、お湯を注ぐ音が揺蕩う。コーヒー特有のほろ苦い香り。紅茶を好む彼女にしては珍しい。もしかして俺のため。そんな冗談混じりの期待を口にしてみれば、あっさり肯定された。「実はコーヒーも嫌いじゃないんですよ」と紡いだ柔らかな声が弾んでいるように聞こえて、どうしようもなく胸をくすぐられる。

やはり笑顔が似合う人だ。いつもこうして、穏やかな時間の中に居るべき人。不安や心配や後悔といった不穏なものとは、常に無縁であって欲しい人。

お礼と共にマグカップを受け取れば、いつも通り隣へ座ったみょうじさんの体重分だけソファが沈んだ。丁度良い濃さのコーヒーが舌に馴染んで、とても美味しかった。