時はほんの少し遡り、とある古びたアパートメントの一室に二人の男が揃っていた。年の若い男達は警察学校の同期の好として久しぶりに集まったのだ。

 しかしそれは表向きの事実で、D機関の田崎と三好は煙草を吹かしながら結城から下された例の一件について話していた。

「で、あの子は来るのかい?」

 田崎がそう言えば、三好は「えぇ」と何の問題もなさそうに答えた。
 ここ最近よく接触する、動物並みに勘の鋭い女中の少女を頭に浮かべた。

「彼女は来ますよ。あの子の性格上、例えヒイラギが連れて来なくても一人でやって来ます。これ以上ヒイラギに迷惑掛けまいと一人で決着を付けようとね」

 馬鹿正直なんですよ。そう三好が付け加える。

 『金井サヨ』を尾行していた男達を買収し、彼女に路地であの会話を聞かせるよう仕向けたのだが、明らかに彼女は茫然自失といった様子でショックを受けていた。

 そしてそんなサヨと今まで接触をしてきた三好にとって、その後の彼女の行動なんてはっきりと分かる。

 ヒイラギはおそらく、この財閥の者がサヨに会おうとしていることも、それに警察が介入するということも彼女には伝えないだろう。
 しかし事情を知らないサヨは自分を財閥の者に引き渡しに行こうとしないヒイラギに対してこう思うはずだ。

 ───自分を引き渡しに行かなければ、報復として財閥からヒイラギに何かされてしまうかもしれない。

 疑い深く、くよくよと悩む癖に真面目な彼女のことだ。そう考えてヒイラギに何も言わず真砂屋に一人で行くだろう。

 あのエドワードの一件だってそうだった。

 あのまま暗号文化された機密文書の紙切れを持ったまま、ヒイラギの屋敷にいればいいものの、サヨは正直にエドワードのもとへ紙を返しに港までやって来てしまったのだ。

 そんな彼女が、今回の件でもそのような行動をとることに三好は大体予測できた。

「金井総二郎はあの子をどうすると思う」

 田崎が煙草の煙を吐きながら、ぽつりと呟く。

「明日真砂屋で彼らは会います。その時にはっきりするでしょう」

 それに三好も頷いた。

 他国に軍の情報を流す『金井総二郎』と会長の愛人の娘である『金井サヨ』の関係なのだが───。

 総二郎の古くからの知人に聞いてみれば、彼は酒に酔う度にサヨのことを「自分にとても似ている」と語っていたそうだ。

 『金井総二郎』は常に出来のよい兄と比べられて生きてきた。
 金井財閥の現当主である彼の兄は幼い頃から優秀であり、長男坊として一族の期待を一身に背負っていた。

 しかし反面、弟の総二郎はそんな兄と比べてやや不器用であり、無骨な男であった。

 そして総二郎は愛人の女にうつつを抜かす父にひどく似ていたため、そんな父を毛嫌いしていた母は幼い頃から自然と総二郎と距離を取っていたらしい。
 帝大を出た後、留学する程頭の良い男ではあったが、元来のその不器用な性質と幼い頃からの境遇からやや捻くれ口を開けば咄嗟に嫌味が飛び出してしまうような人間になってしまった。

 そんな、孤立しがちで肉親の誰からも望まれず、常に優秀な兄の日陰者として生きてきた総二郎は、自分よりもはるかに惨めな『金井サヨ』に目を付けたらしい。

 誰からも望まれず、兄嫁夫婦に中々子が授からないことから、あの屋敷に存在した惨めな彼女の姿と自分を重ねていたところも少なからずあるのだろう。

 総二郎は大っぴらにサヨに近づこうとはしなかったが、思い出したように時折菓子やら小物やらを買い与える傍ら、女学校での勉強や、自身の趣味である洋書を読ませるために外国語を教えていたそうだ。

 しかしサヨはそんな総二郎には決して心を開こうとはしなかったらしい。

 彼女自身気付いていたのだ。

 総二郎が決して彼女に同情ではなく、決して親切心から気にかけてはいないということを。
 そして彼もそんな一向に懐かない少女のことを一切気にしなかった。

 総二郎は自分の自尊心を保つことのできる、ていの良い人間がいれば、それだけで良かったのだから。

 

◆◇◆

 

 金物屋である真砂屋は普段は店を閉めているのだが、今日にかぎって店が開いている。

 古びた平屋の戸を開けて、男が慣れた様子で灯りを灯した。彼に続いてサヨがその中に入れば店には誰もいない。

「この店は俺が買い取ったものなんだ。といっても経営者が老衰で亡くなってね。その後を継いだんだが、会社のこともあるから半分趣味でやってるんだ。………一人になりたい時なんか度々ここへ逃げるんだよ」

 男が隅の方に置いてある簡易椅子に座る。苦笑いしながらそう言った彼をサヨはじっと見つめた。

 サヨ自身まだ子どもであるため理解は出来ないのだが、大の男が弱った様子でそう呟く姿は何だか痛ましかった。
 見てはいけないようなものを見てしまった気持ちになる。

 すると男は、ゆっくりとサヨの方へ顔を向ける。

「久しぶりだな。サヨ。俺のことを覚えてるかい?『総二郎おじさん』だ。屋敷でよく話していただろう」

 『総二郎』と名乗る男は懐かしそうに話しかけるが、サヨには彼がどういった人物かは分からなかった。

 彼女はこの体の少女ではないからだ。

(口振りからしてこの体の子を気にかけてくれていた人なのかな。あの、街で出会った浮島さんみたいに)

 けれどもしそうならば、先程のこの男から感じた強い怒りは一体何だったのか。

 その時不意に、サヨは一昨日聞いたあの男達の会話を思い出した。

 もしかしたら彼らの言っていた『金井財閥の次男坊』とは彼のことかもしれない。

 サヨはそれを確かめるために口を開いた。

「はい。あの、お久しぶりです。おじさんのお兄さんはお元気ですか?」

 そう聞けば総二郎は眉を少し顰めた後、ふっと笑った。

「あいつは相変わらずだよ。屋敷でも会社でもうまくやってる。最近は息子の教育に熱心でね。家庭教師を雇い始めた。外国の者も何人かいる」

 大事な跡取りだからな。そう彼は饒舌に話す。

 それを聞いて、サヨはやはりこの目の前の男が『金井財閥の次男坊』であることを確信した。

 そんな彼がサヨにどうして接触してきたのだろうか。

 総二郎とサヨの間に沈黙が落ちる。

 口振りはとても穏やかだが、何だかサヨはとても総二郎が怖かった。わざと薄ら笑いを浮かべて、必死に感情を押し殺しているような感じが彼からするのだ。
 総二郎の黒い目が憎々しげにサヨを見てめている気がした。

 すると彼は不意にため息を吐いた。

 そしてぽつりと総二郎は呟く。

「………あそこは窮屈だったな。息が詰まる」

 その声音が想像以上に弱々しくて、サヨは少し驚いた。

 今までの話から思うに、彼の言う場所は、おそらく財閥一族の屋敷のことだろう。

「お前が羨ましいよ。あそこから逃げ出せて」

 総二郎が自嘲気味に鼻で笑う。

(この人も、きっと何かあるんだ。この体の『サヨ』みたいに)

 そして彼は立ち尽くす彼女に向けて淡々と話し出した。

「俺と君はよく似ていたな。誰からも望まれずに、自分では想像できないくらいの些細な理由で失望されて惨めな扱いを受ける」

 この時、総二郎は肉親である母親を思い出していた。

 昔から理不尽に遠ざけられ、あからさまに兄と比べては複雑そうな目で総二郎を見つめた。

 あの頃は想像も出来なかったのだ。自身が愛人にうつつを抜かす父親に似ているというだけで、彼女を苦しめていたことを。

 そしてもちろんそれだけではない。

 どこへ行っても何をしても、総二郎は誰からも認められなかった。

 常に自身よりも一歩、いやはるかに優秀な兄の功績が彼を霞ませるのだ。

 兄弟ならばよくある話だと近しい友人には言われたが、そんな生易しいものではない。

 まるであれは、一滴一滴総二郎を殺す毒のようなものだった。

「お前が俺を裏切ったんだろう」

 総二郎がやけに静かな声でそう呟く。

 その言葉の意味をサヨはよく理解することができず眉を寄せた。

 彼はそんなサヨの様子を気にすることなく、薄ら笑いを浮かべながら話し出す。

「お前は知ってたんだろう。俺が、軍の情報を流していたことを」

 それを聞いて、サヨの体は固まる。

(何の話をしてるんだろう………)

 嫌な汗がじわりと額に滲んだ。

「最近やけに俺の周りが騒がしい。おそらく陸軍にばれている」
「何を………」
「周辺を洗い出した時に、お前が一番怪しいと思ったよ。屋敷にいた時は俺のそばに居て、出て行ったと思ったら憲兵に一年も保護された。その時に話したんだろう」

 総二郎の瞳はどろりと黒く澱んでいた。目の焦点が合っておらず、項垂れている。口がわなわなと震えていて、必死に怒りを噛み殺しているようだった。

 サヨはその様子に総二郎を恐れ、思ったように声が出せなくなっていた。

 総二郎の言っていることは明らかにおかしい。

 この体の少女がどれだけ総二郎の近くにいたかは分からないが、ただ一介の子どもがそんなことを軍に告発したって相手にはされないだろう。

 なんせ相手は財閥の者だし、サヨの立場から言ったって今まで蔑ろにされた少女の財閥への嫌がらせだと思われる。

 しかし総二郎はその妄想を信じきって、こうしてサヨのもとにやって来た。

 もしかしたらこの体の『サヨ』みたいに、彼もあの屋敷で少しずつ壊れてしまったのかもしれない。病んでいるのだ。

 総二郎が苦笑しながら話し出した。

「どうせこのことが公になれば、あの家には居られなくなる。おかしいよな。あんな場所に必死に縋り付いて」

 おそらく、この男もサヨのようにあの屋敷から逃げ出したかったのだろう。

 けれど様々なしがらみが総二郎をそうすることを許さないし、彼自身諦めてしまっている。

 この男は多分、悪い男ではないのだ。元々の性根も少なからずあるが、あの屋敷が彼をそうさせてしまったのだろう。

「…………どうして私を呼んだんですか」

 おそるおそる問えば、総二郎はゆっくりと顔をあげた。

 穏やかな顔をして笑みさえ浮かべている。

 そして彼は胸ポケットに手を入れたかと思えば、手の中に収まるくらいの小さなケースのようなものを取り出した。
 サヨはそれが何なのかを理解した時、さっと血の気が引いた。

「殺してやる」

 総二郎の手に持つものは、折りたたみ式のナイフだった。

「まさかお前に裏切られるなんてな」

 サヨは逃げ出そうとしたその時、総二郎のやけに悲しげな声が耳に入った。

 そして次の瞬間、店の扉が雷のように勢いよく開く音がした。

「───そこで何をしている!」

 ばっと振り向けば、そこには二人の警察官が立っていた。

 サヨはいきなりのことに驚いて呆然としてしまったが、すぐさま警察官の下へ逃げようとした。

 しかし総二郎はそんなサヨの腕を捕まえようと手を伸ばす。

 けれどその一瞬、走り出した一人の警察官が瞬時にサヨと総二郎の間に割って入り、瞬く間に彼を取り押さえた。

 あまりの速さにサヨは目を丸くさせる。

 総二郎も一瞬何があったのか理解できないような様相だったが、自身の手から折りたたみ式のナイフがこぼれ落ちた瞬間暴れ出した。

 だが警察官がひどく簡単にそんな彼を抑えるものだから、サヨは呆気に取られてしまった。

「大丈夫ですか?」

 気付けばサヨの背後にもう一人、警察官が立っていた。

「は、はい。あ、あれ?」

 何とか頷いたものの、その時サヨの体の力が一気に抜ける。
 そして立つことも出来ず、彼女はそのまま店の床にしゃがみ込んでしまった。

「ご、ごめんなさい。私、なんか」

 体が震え、いつの間にか涙が溢れていた。

 彼女は怖かったのだ。

 そしてそれをサヨ自身が気付いた時、彼女は項垂れてぼろぼろと泣いた。

 自分で決めてここに来たのだが、ただの、十五歳の少女であるはずのサヨは何をされるか分からず、ずっと不安だったのだ。

 そうして泣き出してしまった横で、そばにいた警察官が誰にも気付かれないよう「やれやれ」と言った様子で顔をしかめた。

 

◆◇◆

 

(この子は、やっぱり平和呆けをしているというか、何というか)

 警察の男、といってもここにいるのはD機関の三好と田崎である。

 警察官に扮した三好は、泣き崩れるサヨの背を小さい子供にやるように摩ってやった。
 きちんと物事を考える癖があるにも関わらず、何故こうなることが予想できなかったのだと三好は少々呆れてしまった。

 すると総二郎がサヨを憎々しげに見つめ言い放った。

「お前が裏切ったんだ!あんなに良くしてやったのに!」

 悲鳴にも近い総二郎のその言葉にサヨは体を硬直させる。

「行くぞ」

 そして総二郎が続け様に口を開こうした瞬間、取り押さえていた警察官、田崎が彼の耳元で何かを囁いた。

 サヨや三好の位置からではよく聞こえないが、それを聞いただろう総二郎が驚愕しまじまじとその警察官を化け物を見るような目で見つめた。

 警察官に扮した男、田崎の口元がうっすらと笑っている。

「そんな、嘘だ………。じゃあ誰が………」

 何を言ったのかはわからないが、おそらく田崎はサヨが本当に無関係であるという類いのことを総二郎に言ったのだろう。

 だらりと項垂れる総二郎の姿から、三好は踞るサヨに目をやり今までの事の顛末と自身の上司である結城のことをぼんやりと思い出していた。

 


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